源清光
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 1110年6月27日(天永元年6月9日) |
死没 | 1168年8月12日(仁安3年7月8日) |
別名 | 黒源太、逸見冠者、甲斐冠者、逸見清光 |
墓所 | 北杜市長坂町の清光寺 |
氏族 | 清和源氏義光流(甲斐源氏) |
父母 | 父:源義清 |
兄弟 | 清光、師光、(※加賀美遠光、安田義定) |
子 |
逸見光長、武田信義、※加賀美遠光、 ※安田義定、二宮清隆、河内義長、 田井光義、曾禰厳尊(玄尊)、 奈胡(奈古)義行、浅利義遠(義成)、 八代(屋代)信清、利見義氏、河内長義、 道光、光賢 |
源 清光(みなもと の きよみつ)は、平安時代末期の武将。甲斐源氏の祖。黒源太(くろげんた)清光、とも、逸見(へんみ)清光とも呼ばれる。
生涯
父は武田冠者・源義清。逸見光長・武田信義・加賀美遠光・安田義定・浅利義遠ら多くの男子がある。(※遠光と義定は弟で養子としたとする説もある(『吾妻鏡』))。
義光の次男であった父の義清は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)を本拠とし武田冠者を称しており、清光も武田郷で生まれる。1124年(保安5年)、源義国の加冠によって15歳で元服。1130年(大治5年)、清光は一族の佐竹氏(伯父佐竹義業の系統)と争い、朝廷より父とともに常陸から追放され、甲斐国八代郡市河荘(山梨県西八代郡市川三郷町)へ流罪となる(源師時の日記『長秋記』、『尊卑分脈』による)。義清・清光は市河荘内の平塩岡(市河三郷町市川大門)に館を構え、義清は市河荘司となっている。なお、中巨摩郡昭和町西条に鎮座する義清神社は義清が晩年に居住した館跡とする説がある。義清・清光は甲斐国北西部(現在の北杜市)の逸見荘へ進出し、逸見冠者を称する。
清光は保元の乱や平治の乱など源氏の一族も関わっている中央の争乱には参加せず、甲斐国での勢力拡大に務めた。八ヶ岳南麓の逸見荘は古代官牧逸見牧が発達しており、現在の山梨県北杜市長坂町に館を構え、詰城として谷戸城(北斗市大泉町谷戸)を築城したという。なお、清光の居館は北杜市須玉町若神子とする説もある。59歳で死去。山梨県北杜市長坂町大八田に所在する清光寺には清光の墓所がある。
清光の子孫らは甲府盆地の各地へ進出し、各地域の地名を姓とし逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏といった甲斐源氏の諸支族の祖となった。武田氏は後に甲斐源氏の中心氏族となるが、武田姓の名乗りに関しては父の義清は常陸国において既に名乗っていたと言われ(志田諄一『勝田市史』、検討の余地も指摘される)、甲斐武田氏の祖となる清光の子信義が武田八幡宮(山梨県韮崎市)において元服した際に称したと言われるが、清光に関しては逸見姓を名乗り武田を称した形跡のないことが指摘され、義清の孫にあたる信義が継承したと考えられている。光長に継承された逸見氏は信義の武田氏が躍進して衰退したと考えられているが、その後は支族の動向が確認できるものの直系に関しては不明とされている。
参考文献
- 柴辻俊六 『甲斐武田一族』