渡辺光将

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渡邊 光將(わたなべ みつまさ、1964年 - )は、日本の元レーシングドライバー東京都出身。

プロフィール

  • 身長:178cm
  • 体重:76kg
  • 血液型:Rh+0

来歴

  • 1980年
    • 1980年3月、15歳で名門「ウエルストン・カートクラブ」でレーシングカートを始める。
  • 1984年
    • 1984年3月、地方選手権筑波FJ1600レースにデビュー。デビュー・レースは予選3位、決勝リタイア。
  • 1985年
    • 1985年、鈴鹿FJ1600レースにエントリーし、全レースすべて6位以内入賞。筑波シリーズでは最終戦まで2位をキープするもエンジントラブルにより最終的にランキング3位となる。この年、筑波FJ1600レースでフォーミュラー初優勝。
  • 1986年
    • 1986年、全日本F3選手権シリーズに「平凡パンチレーシングチーム」よりエントリー。チーム・バジェットの関係から、1983年度にアイルトン・セナがドライブした英国RALT社のRT3シャシーを使用した。もともとウイングカーであるマシンをフラットボトム化したためにハンドリングの悪化その他の弊害の為に、第3戦筑波での雨天レースで当時のトップコンテンダーである佐藤浩二を抑えて5位入賞したのがこの年の最高位。11月には、HKSが個人スポンサーになり第33回F3世界選手権マカオグランプリ(1983年より国際格式のフォーミュラーマシンによって行われるようになって以来、各国のF3選手権の上位者が集結し事実上の「F3世界一決定戦」となった。故アイルトン・セナ《1983年優勝》やミハエル・シューマッハ《1990年優勝》、佐藤琢磨《2001年優勝》など多くのレーシングドライバーがここで勝利を挙げた)に、兵頭秀二松井秀樹らと共に日本代表として出場。マシンのエントリーネームは「HKS平凡パンチ・ラルトRT3」。クローズド・サーキットと勝手の違う公道舗装はミューが低く、凸凹の多いバンピーな路面に初参戦のチームは苦悩。最適なサスペンション・セッティングを見つけることができず、これに加えて多大な振動によるアップライト・ハブのトラブルに終始悩まされた。結果的に第1ヒート、第2ヒートともにリタイヤ。同年、全日本Gr. A選手権シリーズに参戦し、筑波サーキットでクラス3位を獲得。
  • 1987年
  • 1988年
  • 1990年

引退後はテストドライバーやジャーナリストとして活躍。自動車年鑑を執筆。著書「日本と世界の自動車1996」「日本と世界の自動車1997」(成美堂出版)他。

車両テストの経歴

  • 横浜ゴムのテストドライバーとして全日本選手権用のレーシングタイヤの開発
  • 横浜ゴム太子町テストコースで一般車両用タイヤのテスト試走
  • 日本自動車研究所(通称:谷田部高速試験場)旧オーバルコースで一般車最高速テスト
  • ヤマハ袋井テストコースにてトヨタ車テスト試走
  • 日産十勝テストコースにてスカイラインGT-Rテスト試走
  • 米ゼネラルモーターズ社アリゾナテストコースにてブレイザーテスト試走
  • 平凡パンチ」のカーコーナーで稲田大二郎と供に新車リポーターとして活躍。本誌に執筆。

チューニングカー・テストの経歴

チューニングカー(改造車)のサーキット・テストでは、津々見友彦とコンビを組み、筑波サーキット、日光サーキット等でタイムアタック。

戦績

海外

国内

著書

  • 1996年
    • 自動車年鑑/日本と世界の自動車1996(成美堂出版)
  • 1997年
    • 自動車年鑑/日本と世界の自動車1997(成美堂出版)

参考文献

  • AUTO SPORTS YEAR BOOK 1986-1987(三栄書房)
  • AUTO SPORTS YEAR BOOK 1987-1988(三栄書房)
  • AUTO SPORTS YEAR BOOK 1988-1989(三栄書房)
  • AUTO SPORTS YEAR BOOK 1989-1990(三栄書房)
  • 日本と世界の自動車・最新カタログ1996/自動車年鑑(成美堂出版)
  • 日本と世界の自動車・最新カタログ1997/自動車年鑑(成美堂出版)

関連項目