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歌川芳虎

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歌川芳虎画、日本橋通りの明治時代の馬車

歌川 芳虎(うたがわ よしとら、生没年不詳)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての浮世絵師

来歴

歌川国芳の門人。姓は永島、名は辰五郎、あるいは辰之助、辰三郎とも。歌川を称す。一猛斎、孟斎、錦朝楼などと号した。国芳の門人となって、天保1830年 - 1844年)頃から作画を開始している。国芳が得意であった武者絵に秀でており、3代豊国を継承した錦昇堂版の役者大首絵にも力作がある。例として「新洞左衛門娘夕しで、坂東三津五郎」が挙げられる。また、美人画シリーズや相撲絵横浜絵などにおいても活躍しており、幕末の時期において活動的な絵師であった。相撲絵は、国芳門人の中で最も多くの作品を残している。

天保7年(1836年)から慶応の頃にかけて、草双紙も著している。天保8年(1837年)に描いた錦絵「道外武者御代の若餅」では、織田信長豊臣秀吉明智光秀徳川家康を諷刺したとされて手鎖50日の処罰を受ける。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであった。その後、安政5年(1858年)頃、師と不和となり破門されてしまう。文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が大規模な大名行列を引き連れて江戸を旅立つと、江戸幕府の意向か「おらが将軍様が京都へ向かった」という重大行事への江戸っ子の贔屓か、江戸の版元、10数軒が協力して歌川派の絵師10名以上に制作を依頼、この行列をシリーズの浮世絵で描くという企画が持ち上がった。これは「御上洛東海道」と銘打って、日本橋から京都まで、既に歌川広重が幾通りものシリーズで描いた名所を、およそ160点、全ての作品に将軍の行列を加えながら、わずか2、3か月で完成させたものであった。この「御上洛東海道」に、芳虎も参加しており、他には4代歌川豊国2代目 歌川広重歌川芳形歌川芳艶月岡芳年歌川国貞歌川国福豊原国周歌川国綱河鍋暁斎など合計13名の絵師が参加するという豪華な合作であった。

芳虎は錦絵や版本の挿絵と幅広く活躍して、明治元年(1868年)には絵師番付で、歌川貞秀に次いで第2位となって、人気絵師のトップクラスに上っている。芳虎が最も活躍したのは明治維新前後の目新しい風俗を描いた横浜絵開化絵の分野で、作品点数も多いが、質的には濫作の弊を免れていないといえる。また、西南戦争を扱った錦絵も手がけた。横浜開港後に描いた「武州横浜八景」、「万国づくし」、「外国人物つくし」、「五箇国之内」など、外国人や居留地の風俗に強い関心を示しているのは同門の歌川芳員と同じである。殊に海岸図「北亜墨利加洲」、「亜墨利加国」、「アメリカ国風船之図」のように未知の外国風景を描いたものは異色で興味深い。また、慶応3年(1867年)、パリ万博には歌川貞秀らと合作「浮世絵画帳」に加わり、江戸美人を描いたのはその時期、代表的な浮世絵師であったことを示している。明治に入っても「当世十二時」シリーズのように吉原美人を描く一方、「蒸気車陸道通行図」のような鉄道物の錦絵、「新聞名所」で洋風建築を描くなど文明開化に関心を寄せ続けた。没年は不明であるが明治21年(1888年)頃、死去したと考えられる。 国芳と不和となってしまい、師に破門されてしまったため、国芳一門の名を記した三囲神社の石碑中にも芳虎の名はない。

なお、芳虎は明治6年(1873年)に行われた国芳の13回忌の際、師匠の名をだしにして自分ばかり旨い汁を吸う、けしからん奴だといわれて同門から退けられている。

作品

  • 「高須遊君地獄太夫染衣 五代目坂東彦三郎 薪水」 竪大判 東京国立博物館所蔵
  • 「三韓征伐之図」 竪大判3枚続 東京経済大学図書館所蔵
  • 「加藤清正朝鮮遠征船上の図」 竪大判3枚続 東京経済大学図書館所蔵
  • 「風流弥生月」 竪大判3枚続 石川県立美術館所蔵
  • 「保元平治合戦源義朝白河殿夜討之図」竪大判3枚続 石川県立美術館所蔵
  • 「諸病諸薬の戦い」 竪大判 国際日本文化研究センター所蔵
  • 「麻疹養生之傳」 竪大判 国際日本文化研究センター所蔵
  • 「麻疹後の養生」 竪大判 国際日本文化研究センター所蔵
  • 「摂州兵庫求女塚合戦」 竪大判3枚続 神戸市立博物館所蔵

関連項目

参考図書