歌川芳員

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歌川 芳員(うたがわ よしかず、生没年不詳)とは、江戸時代末期から明治時代初期にかけての浮世絵師

来歴[編集]

歌川国芳の門人。通称は次郎兵衛、または次郎吉。歌川を称す。一寿斎、春斎、一川、一川斎と号す。江戸に住んでいた。作画期は嘉永1848年 - 1854年)頃から明治3年(1870年)頃までで、主に合戦絵武者絵花鳥画草双紙の挿絵などを描いていた。しかし、横浜開港後は異人の生活風俗に興味を持ち、横浜絵を描いた絵師の中でも異才の一人であった。「異国人酒宴遊楽之図」、「外国人写真鏡之図」、「外国人どんたく遊覧行列乃図」や、各国人種、横浜の遊廓図で外国人たちの遊興を描いた。その筆致はいくらか稚拙であるが、開港まもなくの長閑で明るいのも時代の反映と、芳員の人柄によるものであろうと思われる。また、鉄道が未だ日本に無い文久元年(1861年)に描いた「亜墨利加国蒸気車往来之図」や、明治3年(1870年)に描いた「東京繁栄車往来之図」があり、それぞれ、船ともトレーラーともつかない奇妙な汽車を描いているのも面白い作品である。

作品[編集]

この錦絵は蒸気船なのに外輪が無く、航行中の筈がタラップが降りたまま等の矛盾が多い事から、芳員の創作である事がわかる[1]
これも芳員の創作で、当時写真機が珍しかったので、「フランクレズリー絵入新聞」の日本の遣米使節団の挿絵を引用し、日本人を外国人に置き換えて描いている、この様に芳員等の画家達は外国からくる珍しいものは何でも題材にした[2]
この錦絵は、フランクレズリー絵入新聞の中で「遣米使節団歓迎レセプション」の挿絵を外国人の家族に置き換えたものである、画家達は、こういった絵入新聞の挿絵等を引用しては他の作品に転用したりしていた[3]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ヒストリーチャンネル(CS 342ch)「極める 日本の美と心(新 極める)」日本開国グラフィティー~YOKOHAMA PRINTS IN U・S・A~番組内の説明より抜粋
  2. ^ ヒストリーチャンネル(CS 342ch)「極める 日本の美と心(新 極める)」日本開国グラフィティー~YOKOHAMA PRINTS IN U・S・A~番組内の説明より抜粋
  3. ^ ヒストリーチャンネル(CS 342ch)「極める 日本の美と心(新 極める)」日本開国グラフィティー~YOKOHAMA PRINTS IN U・S・A~番組内の説明より抜粋

参考文献[編集]

  • 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年

関連項目[編集]