コンテンツにスキップ

植田正治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。202.225.81.34 (会話) による 2011年7月30日 (土) 14:06個人設定で未設定ならUTC)時点の版 ( 経歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本写真家

植田の前衛的な演出写真[1]は「植田調」として知られ、写真誕生の地であるフランスでも日本語表記そのままに「Ueda-cho」として紹介されている[2]。出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く写真活動を行った。

経歴

鳥取県西伯郡境町(現境港市)に生まれる[1]。生家は履物店である[3]商号は「下駄屋」[3]。祖父・文太郎は境町の指導的人物であり、境町会議員をつとめている[4]

小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。特に1980年代以降、多数の展覧会開催や写真集出版を行った。 数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」はよく知られている。

植田作品は人をオブジェのように配する構図や、逆に物を擬人化するなどの特徴を持ち[5]土門拳名取洋之助の時代以降の主観や演出を重視した日本の写真傾向と合致し、また、その後に大きく興隆する 広告写真ファッション写真とも親近性があったこともあり、次第に評価が高まった。

1994年、歌手福山雅治HELLO」のCDジャケット写真を手がけたことをきっかけに福山と親交を深め、写真を指導した。

2000年7月4日、87歳で没。

没後、2005年頃より再評価の動きが出始め、回顧展開催や写真集出版が行われた。2005年には植田正治写真美術館にて福山、菊池武夫堀内誠一が『〜オマージュ・植田正治に捧ぐ〜』を開催した。またヨーロッパや、東京都写真美術館でも回顧展が開催された。

年譜

家系

植田写真機店は先代以来、境町で最も古い履物店で、と年末の客の数は大変なものだった[3]。銀座通りで、新しいスタイルで履物部を移転し、写真芸術家として日本でも有名な植田正治が専ら写真専業に名声を高めた[3]

植田家は彼の祖父・文太郎以来『下駄屋』の商号で町民から親しまれ、“下駄屋の履物は、花緒が緩まない”と喜ばれていた[3]

個人美術館

著書

  • 『私の写真作法』阪急コミュニケーションズ、2000年。ISBN 978-4484002170 

参考文献

  • 「芸術写真の時代 米子写友会回顧展 大正末期~昭和初期」図録/米子市美術館/1990年
  • 「植田正治とその仲間たち 1935‐55」展図録/米子市美術館/1992年
  • 「植田正治の写真」展図録/東京ステーションギャラリー/1993年
  • 植田正治(日本の写真家・第20巻)/岩波書店/1998年

その他写真集多数

関連項目

脚注

  1. ^ a b 前衛的な演出 山陰を活写 下京で故植田正治さん写真展開幕”. 京都新聞 (2010年5月21日). 2010年9月23日閲覧。
  2. ^ 第3回 植田正治
  3. ^ a b c d e 『境港市史 下巻』(昭和61年(1986年 87頁)
  4. ^ 『境港市史 下巻』(昭和61年(1986年 788-789頁)
  5. ^ 伯耆・写真美術館で植田さん特有の作品紹介”. 山陰中央新報 (2010年9月21日). 2010年9月23日閲覧。
  6. ^ 『境港市史 下巻』(昭和61年(1986年 891頁)

外部リンク