コンテンツにスキップ

板倉勝澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。富士の渓流 (会話 | 投稿記録) による 2012年4月7日 (土) 06:07個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
板倉 勝澄
時代 江戸時代中期 - 江戸時代後期
生誕 享保4年6月28日1719年8月13日
死没 明和6年5月3日1769年6月6日
改名 新平(幼名)→板倉勝澄→源承(法号)
戒名 円乗院殿無山元承大居士
墓所 愛知県西尾市貝吹町の長円寺
主君 徳川吉宗家重
伊勢亀山藩主→備中松山藩
氏族 板倉氏
父母 父:板倉重治、母:村井氏
正室:戸田忠余の娘
側室:根津氏、植原氏、福村氏
勝武光邦勝従勝行勝政勝峯忠尊勝房、巨勢利喬の正室、菅沼定前の正室、
本多忠盈の正室
テンプレートを表示

板倉 勝澄(いたくら かつずみ、享保4年6月28日1719年8月13日) - 明和6年5月3日1769年6月6日))は、伊勢亀山藩の第2代藩主。備中松山藩の初代藩主。板倉家宗家7代。

伊勢亀山藩初代藩主・板倉重治の長男。母は村井氏。正室は戸田忠余の娘。側室に根津氏、植原氏、福村氏。子に板倉勝武(長男)、戸田光邦(次男)、板倉勝従(三男)、板倉勝行(四男)、板倉勝政(七男)、板倉勝峯(九男)、伊奈忠尊(十一男)、板倉勝房(十二男)、娘(前田利尚正室)、娘(堀直泰正室)、娘(巨勢利喬正室)、娘(菅沼定前正室)、娘(本多忠盈正室)。官位は従五位下、周防守、相模守。幼名は新平。

享保4年(1719年)6月28日生まれ。享保9年(1724年)閏4月、家督を継いで伊勢亀山藩主となる。延享元年(1744年)3月、伊勢亀山から備中松山へ移封される。延享3年(1746年)には松山に学問所を創設し、藩士子弟の教育に努めた。寛延4年(1751年)9月23日、長男・勝武に家督を譲って隠居し、剃髪して源承と号した。明和6年(1769年)5月3日、51歳で死去。

法号:円乗院殿無山元承大居士。墓所:愛知県西尾市貝吹町の長円寺。