松平家信

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松平家信
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄8年(1565年
死没 寛永15年1月14日1638年2月27日
別名 又七、紀太郎(通称)、家副
戒名 上誉露雪
墓所 千葉県佐倉市の光忠寺
官位 従四位下紀伊守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
三河形原藩主→摂津高槻藩主→下総佐倉藩藩主
氏族 形原松平家
父母 松平家忠酒井正親の娘
正室松平康忠の娘
継室石川康正の娘
継々室太田輝資の娘・紫雲院
康信重信氏信信忠信昌石川正重室、松平広永室、松平康比室、櫛笥隆朝室、和田重富室、井伊直好継室、晃玄
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松平 家信(まつだいら いえのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名。名は家副とも。通称は又七、紀太郎。官位従四位下紀伊守三河国形原藩主、摂津国高槻藩主、下総国佐倉藩の初代藩主形原松平家6代当主。

略歴

第5代当主・松平家忠の子として誕生。

早くから徳川家康に仕え、天正10年(1582年)の織田信長甲州征伐が始まると、家康軍に従軍して功を挙げた。同年、父の家忠が死去したために家督を継ぐ。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは酒井忠次に属して敵将・野呂孫一郎を討ち取るという武功を挙げた。小田原征伐後、家康が関東に移されると、上総国五井で5000石を与えられた。形原・五井時代には徳川水軍の一翼を担った。また、家信の家臣・尾関定勝の娘婿である神尾守世の生母・阿茶局(雲光院)が家康の側室であったことから、阿茶局母子を通じて家康や嫡男の秀忠との関係を深めていった[1]

元和4年(1618年)、旧領の形原藩へ戻され1万石を領する大名となる。元和5年(1619年)に摂津高槻、寛永13年(1635年)には下総佐倉に移されて4万石を領した。寛永15年(1638年)1月14日、74歳で死去し、跡を次男・康信が継いだ。

墓所は千葉県佐倉市の光忠寺。法号は上誉露雪。

系譜

家督は次男・康信が継ぐ。四男・氏信旗本となった。康信の妹はそれぞれ櫛笥隆朝の室、井伊直好の継室となった。

脚注

  1. ^ 小川雄「戦国・豊臣大名徳川氏と形原松平氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P49-59