村岡儆三
むらおか けいぞう 村岡 儆三 | |
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1919年、村岡花子との結婚当時 | |
生誕 |
1887年 神奈川県横浜市 |
死没 |
1963年 東京都大田区 |
死因 | 心臓麻痺 |
墓地 | 久保山墓地 |
国籍 | 日本 |
出身校 |
横浜商業学校 (後の横浜市立横浜商業高等学校) |
職業 |
出版業者、印刷業者 (福音印刷株式会社専務取締役) (青蘭社書房創業者) |
活動期間 | 1907年 - 1963年 |
著名な実績 | 児童文学、家庭文学への貢献 |
活動拠点 | 東京都大田区 |
宗教 | キリスト教プロテスタント |
配偶者 | 村岡花子 |
子供 | 村岡みどり(養女、妻の姪) |
親 | 村岡平吉 |
親戚 |
村岡斎(弟) 村岡美枝・村岡恵理(義理の孫で妻の大姪) 村岡希美(大姪。末弟の孫) 賀川ハル(従姉妹) |
村岡 儆三[注 1](むらおか けいぞう、1887年〈明治20年〉[3] - 1963年〈昭和38年〉2月6日)は、日本の出版業者・印刷業者。神奈川県横浜市出身[4]。父は聖書印刷で知られる村岡平吉、妻は翻訳家の村岡花子(後妻、後述)。母方の従姉妹に社会運動家の賀川ハルがいる。
経歴
[編集]横浜商業学校(後の横浜市立横浜商業高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父の営む福音印刷合資会社(後の福音印刷株式会社)に入社し[3]、父の事業を助けた。1914年(大正3年)に同社の東京市(後の東京都)銀座進出後、銀座支店の責任者となった。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけたが、妻が結核を発病し、別居を余儀なくされた[5]。
後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳による『モーセが修学せし國』の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちた。同年10月24日に結婚。東京市大森新井宿(後の東京都大田区大森)を新居とした[6]。
1922年(大正11年)、福音印刷創業25周年を機に、父の平吉から社の経営を引き継いだ。間もなく平吉が死去し、自身は専務取締役、弟の斎(ひとし)が常務取締役となった。兄弟で父の遺志を継いで社を営もうとした矢先、翌1923年(大正12年)の関東大震災で福音印刷が倒壊。斎が死亡した上、社の役員の裏切りに遭って社の復興もかなわなくなり、倒産[7]。別の家へ養子に行っていた先妻との間の子も震災で失い、経済的にも精神的に大きな打撃を被るが、花子の献身的な支えにより、印刷業での再起を志した[8]。
1926年(大正15年)、片山広子、守屋東、本田増次郎らの支援を受け、自宅に小規模ながら出版社兼印刷所「青蘭社書房」を創業[9]。女性と子供のための本を安価に提供することを趣意として[10]、花子と二人三脚での運営を始め、花子の翻訳した書籍の出版の場ともなった[8]。1930年(昭和5年)には同社機関誌『家庭』(後に『青蘭』に改題)を創刊。生活に基調を置いた「生活派」の文学を提唱し、子供も大人も楽しめる家庭文学に、花子とともに希望を込めて取り組んだ[11]。その後も戦中から戦後へと続く時代を、花子とともに生き抜いた。
1963年に自宅での夕食後、心臓麻痺で死去。75歳没[12]。
花子とのエピソード
[編集]花子との出逢いの当時はまだ先妻と籍を入れたままであり、妻帯者の身での禁断の恋であった。花子との往復書簡(ラブレター)の文面にもその激情と葛藤が現れており、その数は出逢いから結婚までの半年間で70通以上に昇った[6]。
2人を引き合わせた『モーセが修学せし國』の奥付には、発行人の名を挟んで「訳者 安中花子」「印刷人 村岡儆三」と2人の名前が並んでいる[9]。その横には花子の自筆で「大正八年五月二十五日 魂の住家みいでし記念すべき日に 花子」と記されており[9]、これは2人が初めてキスをかわした日付である[6]。
結婚から10年以上を経た頃には、「妻は3歩下がって夫に従う」といわれた時代にあって、彼と花子は2人連れ添っての外出が多く、おしどり夫婦として評判であった。近所の人々は、当時周辺に出没していた浮浪者夫婦「おしゃれ乞食」を引き合いにだし、「この界隈で肩並べて歩くのは『おしゃれ乞食』と村岡さんのところぐらい」と噂していた[14]。花子の文学業の多忙さには理解を示し、東芝で製作されたばかりの撹拌式洗濯機の購入[15]、当時としては珍しかったオーブンの購入[15]、台所の改修などで家事の軽減を図った[14]。
英語、ドイツ語、ラテン語に通じ、キリスト教徒として聖書にも詳しいことから、夫としてのみならず、花子の翻訳家としての良き相談相手でもあった[14]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “『花子とアン』の原案を書いた村岡恵理さんにインタビュー!”. 成績アップ街ランキング. 学研ホールディングス (2014年5月14日). 2014年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月7日閲覧。
- ^ “『花子とアン』モデルの村岡花子と夫のラブレターの一部を公開”. NEWSポストセブン (小学館). (2014年6月24日) 2015年7月7日閲覧。
- ^ a b 西村明爾 (2014年). “村岡花子 近現代・系図ワールド NHK朝ドラ「花子とアン」”. 系図で見る近現代 夢・感動・人間!. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “地元が生んだ“印刷王”を研究 港北区の峯岸英雄さん”. 定年時代. 新聞編集センター (2014年5月). 2014年5月13日閲覧。
- ^ 村岡 2011, pp. 150–158.
- ^ a b c 村岡 2011, pp. 163–184
- ^ 福島右子他 著、鳥越信 編『はじめて学ぶ日本の絵本史』 II、ミネルヴァ書房〈日本の文学史〉、2002年、261頁。ISBN 978-4-623-03316-4。
- ^ a b 村岡 2011, pp. 194–222
- ^ a b c 村岡編 2014, pp. 62–65
- ^ 村岡花子他『お山の雪 童話集』青蘭社書房、1928年、259頁。全国書誌番号:45016765 。
- ^ 村岡 2011, pp. 240–241.
- ^ 村岡 2011, pp. 263–366.
- ^ 村岡恵理『『赤毛のアン』と花子 翻訳家・村岡花子の物語』学研教育出版、2014年3月28日、122頁。ISBN 978-4-05-203962-1。
- ^ a b c 村岡 2011, pp. 245–249
- ^ a b 村岡 1980, p. 264
参考文献
[編集]- 村岡恵理『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』新潮社〈新潮文庫〉、2011年8月(原著2008年)。ISBN 978-4-10-135721-8。
- 村岡みどり「母、村岡花子の思い出」『ミセス』第275号、文化出版局、1980年9月7日、NCID AN10269859。
- 村岡恵理 編『花子とアンへの道 本が好き、仕事が好き、ひとが好き』新潮社、2014年3月25日。ISBN 978-4-10-335511-3。