コンテンツにスキップ

村岡儆三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村岡敬三から転送)
むらおか けいぞう

村岡 儆三
1919年、村岡花子との結婚当時
生誕 1887年
神奈川県横浜市
死没 1963年
東京都大田区
死因 心臓麻痺
墓地 久保山墓地
国籍 日本の旗 日本
出身校 横浜商業学校
(後の横浜市立横浜商業高等学校
職業 出版業者、印刷業者
(福音印刷株式会社専務取締役)
(青蘭社書房創業者)
活動期間 1907年 - 1963年
著名な実績 児童文学、家庭文学への貢献
活動拠点 東京都大田区
宗教 キリスト教プロテスタント
配偶者 村岡花子
子供 村岡みどり(養女、妻の姪)
村岡平吉
親戚 村岡斎(弟)
村岡美枝村岡恵理(義理の孫で妻の大姪)
村岡希美(大姪。末弟の孫)
賀川ハル(従姉妹)
テンプレートを表示

村岡 儆三[注 1](むらおか けいぞう、1887年明治20年〉[3] - 1963年昭和38年〉2月6日)は、日本の出版業者・印刷業者。神奈川県横浜市出身[4]。父は聖書印刷で知られる村岡平吉、妻は翻訳家村岡花子(後妻、後述)。母方の従姉妹に社会運動家賀川ハルがいる。

経歴

[編集]

横浜商業学校(後の横浜市立横浜商業高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父の営む福音印刷合資会社(後の福音印刷株式会社)に入社し[3]、父の事業を助けた。1914年大正3年)に同社の東京市(後の東京都銀座進出後、銀座支店の責任者となった。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけたが、妻が結核を発病し、別居を余儀なくされた[5]

後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳による『モーセが修学せし國』の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちた。同年10月24日に結婚。東京市大森新井宿(後の東京都大田区大森)を新居とした[6]

1922年(大正11年)、福音印刷創業25周年を機に、父の平吉から社の経営を引き継いだ。間もなく平吉が死去し、自身は専務取締役、弟の(ひとし)が常務取締役となった。兄弟で父の遺志を継いで社を営もうとした矢先、翌1923年(大正12年)の関東大震災で福音印刷が倒壊。斎が死亡した上、社の役員の裏切りに遭って社の復興もかなわなくなり、倒産[7]。別の家へ養子に行っていた先妻との間の子も震災で失い、経済的にも精神的に大きな打撃を被るが、花子の献身的な支えにより、印刷業での再起を志した[8]

1926年(大正15年)、片山広子守屋東本田増次郎らの支援を受け、自宅に小規模ながら出版社兼印刷所「青蘭社書房」を創業[9]。女性と子供のための本を安価に提供することを趣意として[10]、花子と二人三脚での運営を始め、花子の翻訳した書籍の出版の場ともなった[8]1930年(昭和5年)には同社機関誌『家庭』(後に『青蘭』に改題)を創刊。生活に基調を置いた「生活派」の文学を提唱し、子供も大人も楽しめる家庭文学に、花子とともに希望を込めて取り組んだ[11]。その後も戦中から戦後へと続く時代を、花子とともに生き抜いた。

1963年に自宅での夕食後、心臓麻痺で死去。75歳没[12]

花子とのエピソード

[編集]
村岡儆三・花子夫妻と、5歳で早世した長男・道雄。1922年、道雄の3歳の誕生日の記念写真[13]

花子との出逢いの当時はまだ先妻と籍を入れたままであり、妻帯者の身での禁断の恋であった。花子との往復書簡(ラブレター)の文面にもその激情と葛藤が現れており、その数は出逢いから結婚までの半年間で70通以上に昇った[6]

2人を引き合わせた『モーセが修学せし國』の奥付には、発行人の名を挟んで「訳者 安中花子」「印刷人 村岡儆三」と2人の名前が並んでいる[9]。その横には花子の自筆で「大正八年五月二十五日 魂の住家みいでし記念すべき日に 花子」と記されており[9]、これは2人が初めてキスをかわした日付である[6]

結婚から10年以上を経た頃には、「妻は3歩下がって夫に従う」といわれた時代にあって、彼と花子は2人連れ添っての外出が多く、おしどり夫婦として評判であった。近所の人々は、当時周辺に出没していた浮浪者夫婦「おしゃれ乞食」を引き合いにだし、「この界隈で肩並べて歩くのは『おしゃれ乞食』と村岡さんのところぐらい」と噂していた[14]。花子の文学業の多忙さには理解を示し、東芝で製作されたばかりの撹拌式洗濯機の購入[15]、当時としては珍しかったオーブンの購入[15]、台所の改修などで家事の軽減を図った[14]

英語ドイツ語ラテン語に通じ、キリスト教徒として聖書にも詳しいことから、夫としてのみならず、花子の翻訳家としての良き相談相手でもあった[14]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ メディアによっては「村岡 敬三」との表記もある[1][2]

出典

[編集]
  1. ^ 『花子とアン』の原案を書いた村岡恵理さんにインタビュー!”. 成績アップ街ランキング. 学研ホールディングス (2014年5月14日). 2014年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月7日閲覧。
  2. ^ “『花子とアン』モデルの村岡花子と夫のラブレターの一部を公開”. NEWSポストセブン (小学館). (2014年6月24日). https://www.news-postseven.com/archives/20140624_261999.html?DETAIL 2015年7月7日閲覧。 
  3. ^ a b 西村明爾 (2014年). “村岡花子 近現代・系図ワールド NHK朝ドラ「花子とアン」”. 系図で見る近現代 夢・感動・人間!. 2014年5月17日閲覧。
  4. ^ 地元が生んだ“印刷王”を研究 港北区の峯岸英雄さん”. 定年時代. 新聞編集センター (2014年5月). 2014年5月13日閲覧。
  5. ^ 村岡 2011, pp. 150–158.
  6. ^ a b c 村岡 2011, pp. 163–184
  7. ^ 福島右子他 著、鳥越信 編『はじめて学ぶ日本の絵本史』 II、ミネルヴァ書房〈日本の文学史〉、2002年、261頁。ISBN 978-4-623-03316-4 
  8. ^ a b 村岡 2011, pp. 194–222
  9. ^ a b c 村岡編 2014, pp. 62–65
  10. ^ 村岡花子他お山の雪 童話集』青蘭社書房、1928年、259頁。全国書誌番号:45016765https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169931 
  11. ^ 村岡 2011, pp. 240–241.
  12. ^ 村岡 2011, pp. 263–366.
  13. ^ 村岡恵理『『赤毛のアン』と花子 翻訳家・村岡花子の物語』学研教育出版、2014年3月28日、122頁。ISBN 978-4-05-203962-1 
  14. ^ a b c 村岡 2011, pp. 245–249
  15. ^ a b 村岡 1980, p. 264

参考文献

[編集]