木寺宮

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木寺宮家
家紋
家祖 邦良親王
後二条天皇の皇子)
種別 皇族宮家
出身地 山城国
主な根拠地 山城国葛野郡木寺
遠江国敷智郡入野邑?
支流、分家 木寺氏?
凡例 / Category:日本の氏族

木寺宮(きでらのみや)は、鎌倉時代から室町時代中期にかけて存続した宮家常盤井宮家に次いで、世襲親王家の体裁を備えていた。始祖は後二条天皇の皇子である皇太子邦良親王、初代はその嫡男の康仁親王。称号の由来は、邦良親王以下の代々の殿宅が洛西の葛野郡木寺(仁和寺付近)にあったことによるという。経済的に衰微した後は、遠江国に移ったともいわれる。

概略

後宇多法皇は、早世した子息後二条天皇が遺した孫の邦良親王を大覚寺統の正嫡として所領を譲与し、尊治の所領も将来は邦良に譲与すること、尊治が即位しても本人一代に限り、尊治の子孫は世襲親王家にとどめることと定めた。

1318年、尊治(後醍醐天皇)が即位すると、邦良が皇太子に立てられたが、後醍醐はひたすら譲位を引き延ばし、生来病弱であった邦良は1326年に皇位につくことなく薨御した。

邦良の子、康仁は、本来は父邦良の後継者として大覚寺統の正嫡たる身であるが、後醍醐の在位中は徹底的に冷遇された。後醍醐が叛乱に失敗して廃位されると、後継の光厳天皇は康仁を皇太子に立てた。大覚寺統の血筋の木寺宮が持明院統北朝)と深い結びつきを有するようになったのは当然のことである。

しかし1333年鎌倉幕府が滅亡し、権力を奪回した後醍醐が隠岐から京都に帰還すると、光厳天皇即位は取り消され、康仁も皇太子を廃された

康富記』によると、康仁親王の後の木寺宮は、邦恒王世平王邦康親王と3代を経て、室町時代中期まで存続した。ただし、邦恒王世平王は早世したため、親王宣下を受けた記録がない。邦康の子には師煕親王(静覚入道親王)などがいる。天正年間(1573年〜1592年)まで存続したことは確認でき、邦康親王の曾孫と推定される「木寺宮」は後奈良天皇の猶子となり、親王宣下を受けたと推定できる。また、この木寺宮は、江戸幕府高家旗本となった大沢基宿の外祖父であり、法名を「龍雲院」と号したという。ただし、この木寺宮の実名は不明である[1]

系譜

後二条天皇邦良親王康仁親王邦恒王世平王邦康親王師煕親王

邦康親王 ─ 童形(住三河国) ─ 童形 ─ 龍雲院

遠江国下向と子孫

康仁について、南朝荘園遠江国入野(静岡県浜松市)に下向して龍雲寺を興し、そこに落ち着いたという伝承があって、親王の屋敷跡・墓所・真影とされるものが同寺内に伝存している。康仁が京都付近で没したことは『園太暦』に見えているので、伝承は事実を伝えたものではない。ただし、木寺宮の縁者が遠江と所縁があった可能性はある。その時期は、中央の記録から消えた邦康以降ということになろう。ただし、これらを具体的に裏付けるような史料は存在しない。

『龍雲寺文書』によれば、永禄から天正のころ、当寺に「大宮様」が住んでいたが、武田方の軍役を務めていたため、1580年徳川家康に攻められ、寺を焼いて信州に逃走している。「大宮様」とは赤津中務少輔のことで、木寺宮(康仁親王)8世との寺伝があるが、これも具体的な裏づけはない。なお『寛政譜』には、大沢基宿の母や知久則直の母を「木寺宮」出身と伝えている。

龍雲寺の 「略系図」では、戦国期の木寺宮(龍雲寺殿)の子は、木寺宮(赤津中務少輔)、女子(大沢左衛門佐基胤室)、女子(信州河島知久監物室)、某(龍雲寺住職瑞椿和尚)と記される。他方、『遠江国風土記伝』の大宮様の子は、長男・佐兵衛輔、中男・宗察公(明庵察公首座禅師)、三男・右兵衛輔であった。「略系図」では、「風土記伝」にある大宮の子を『本朝皇胤紹運録』にある康仁親王の子に対応させている。 西田かほるはこれを、康仁親王と戦国期の「木寺宮」そして「大宮」が混同された結果であり、様々な情報を系図に反映させたことによる錯乱であるとした。また、龍雲院と大宮を同一人物としても矛盾があり、例えば、「略系図」 の瑞椿は、「風土記伝」では「明庵宗公」と記されていることを指摘している[2]

木寺宮家臣の堀江家に伝わる文書によれば、8世孫の「木寺宮(大宮)」について、「木寺之宮者正親町第一之宮也、月蝕之日依有御誕生不能継王位、忍出宮中携幾江ノ局ヲ一人到尓 遠州入野村空送歳月」とあり、木寺宮が正親町天皇の皇子であり、月蝕の日に誕生したことにより王位を継ぐことができず、局1人を連れて宮中を出て入野村で空しく時を過ごしたとする。さらに、徳川家康が入野を通りかかった際に紫雲が立っていたことから宮の存在を知 り朱印状を出したことや、木寺宮の3人の子のうち、姉は大沢氏へ、次女は知久氏へ、三男は入野で剃髪して「龍門」と称したとする。ここでは武田家も登場せず、赤津の名もない。また僧になった木寺宮の子は龍門という。そして、木寺宮は康仁親王の後胤ではなく、正親町天皇の皇子となっている。康仁親王とのつながりは、わずかに「不能 継王位」宮という点に残されているのみである。西田かほるは、堀江家にとって、木寺宮は戦国期の貴種ということ以上のものではなかったとしている[3]

明治初期に龍雲寺によって編纂された『康仁親王御墓其外明細書上帳」』によれば、「大宮様」は龍雲寺の末寺・長楽寺へ薬師堂、大円寺へ大日堂を建立したという。また、大宮様は天正8年(1580年)の戦乱の際に、嶋勘兵衛を船頭として浜名通りまで行き、それ以降は消息不明だが、その発足日を忌日として供養しているという[4]

西田かほるは、木寺宮の歴史について以下のようにまとめている。

後二条天皇の皇太子・邦良親王の長男・康仁親王の後胤である木寺宮は、戦国期には在国皇族領主として約40年間にわたって浜松の入野村を領し、婚姻を通じて遠江の大沢氏信濃知久氏といった在地勢力とも結びついていた。また、一度は武田方に与したものの、天正8年(1580年)に家康判物を得て、祈願所であった龍雲寺の寺領を安堵された。その後、木寺宮家は断絶し、かつ龍雲寺に独住がいなかったこともあり、17世紀末には既に忘れられた存在になっていた。『随庵見聞録』や大岡越前の古文書調査、内山真龍の『遠江国風土記伝』の編纂、そして羽田野敬雄による『康仁親王御伝』、陵墓調査など、様々な機会に木寺宮について再認識されたものの、龍雲寺は明治期に至るまで木寺宮の由緒を積極的に語らなかった。それは『随庵見聞録』に収載された天正8年3月の赤津中務少輔宛武田家朱印状が、 武田氏に与して徳川家康と戦った証拠として、また赤津が木寺宮であるとして、後々まで由緒を規定し続けたからである。ただし、これは木寺宮家の家臣であり木寺宮の親族であった桜井家の由緒であり、入野本所方への権限を家康から認められたことを主張するためのものであった。龍雲寺には家康が「大宮」へ寺領を安堵した判物が残されているが、龍雲寺は宛所の局を不明とし、明治になってようやく家康と木寺宮の「懇情」に基づく由緒をつくりあげた。その一方で徳川方との戦いは、木寺宮家臣たちの由緒として定置し、それを抜きに木寺宮の由緒を語ることはできなくなっていた。 また近世後期から天皇朝廷への関心が高まり、三遠南信地域では宗良親王をはじめとする南朝の由緒が語られるようになっていく。「風土記伝」以降、康仁親王にも関心が向けられていくが、朝廷の由緒を積極的に語ることはなかった。近代になり陵墓の調査が行われる頃には、康仁親王の由緒は当然のこととして、戦国期の木寺宮の実態も分からず、その子どもや法名あるいは塔をめぐって諸説錯乱を生じることになった。ただしそこには、単に荒唐無稽な由緒を述べるのではなく、地域に残された資料の断片を集め、組み立て直そうとする実証的な側面もあった。江戸時代の由緒は徳川家康や地域の戦国大名などと結びつき、自らを社会的に位置づけたり、既特権を主張したりするものであった。木寺宮の場合、康仁親王は南朝につながる大覚寺統でありながら北朝方の廃太子であり、戦国期の木寺宮は家康へ敵対したという、いわば負の由緒であった。加えて、仮に既特権を主張するとしても、入野本所方という枠組みを出るものではなかった。近世期には近隣に10から15の末寺を持つ中本寺の立場にあった龍雲寺にとって、木寺宮の由緒は自ら声高に語るものではなかったといえる。それにより、桜井家の由緒を基にした木寺宮の由緒が今日まで機能し続けたのであった[5]

地方に下った宮家の例としては他に五辻宮が挙げられる。

脚注

注釈

出典

  1. ^ 『王と呼ばれた皇族 古代中世皇統の末流』 赤坂恒明 2020年 吉川弘文館
  2. ^ 西田かほる「近世遠江における親王由緒―木寺宮をめぐって―[1]」(『静岡文化芸術大学研究紀要』巻21、2021年)
  3. ^ 西田かほる「近世遠江における親王由緒―木寺宮をめぐって―[2]」(『静岡文化芸術大学研究紀要』巻21、2021年)
  4. ^ 西田かほる「近世遠江における親王由緒―木寺宮をめぐって―[3]」(『静岡文化芸術大学研究紀要』巻21、2021年)
  5. ^ 西田かほる「近世遠江における親王由緒―木寺宮をめぐって―[4]」(『静岡文化芸術大学研究紀要』巻21、2021年)