明叔慶浚

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明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん、生年不詳 - 天文21年8月28日1552年9月16日))は、戦国時代末の臨済宗妙心寺派の高僧。飛騨国国人三木直頼の義兄[1]。諡は圓應大通禅師。希菴玄密の師とされる。

経歴

幼年の頃出家し飛騨国益田郡中切村の玉龍寺(岐阜県下呂市)にて景堂玄訥に師事する。その後諸国を遊歴して戻り景堂の法を嗣いだ。

永正17年(1520年龍安寺西源院の敷地定書に妙心寺当住の景堂玄訥と伴に「侍衣慶浚」の名で署名している。

大永年間(1521年1528年)に遊歴して荒廃していた甲斐国恵林寺山梨県甲州市)に入り中興した。また義弟の三木直頼の招きによって飛騨に戻り三木氏の菩提寺である益田郡中呂村の禅昌寺に入り再興始祖となる。大永8年(1528年)4月には京都の妙心寺に入った。

天文3年(1534年)6月に美濃国恵那郡遠山荘地頭遠山景前の招きにより大圓寺(岐阜県恵那市)を再興し天文10年(1541年)まで止住した。

天文8年(1539年)6月27日に苗木遠山氏の遠山昌利の妻が70歳で亡くなり、7月1日に葬儀が行われ明叔慶浚が導師をつとめた。

天文8年(1539年)8月美濃国可児郡烏峰城主の斎藤正義は画工に命じて等身大の甲冑姿の肖像画を書かせたが、その中に明叔慶浚の讃が書かれており、浄音寺(可児市兼山町)に現存している。その後可児郡愚渓寺(可児郡御嵩町)に移り再興した。愚渓寺には明叔慶浚の頂相が残っている。

天文10年(1541年)4月駿河今川義元に招かれ臨済寺に入った。太原雪斎は同じ妙心寺派の明叔慶浚に一時的に住職の地位を譲っている。

その後、甲斐へ至り穴山信友のすすめで天輪寺(1959年に火災で焼失)に数日滞在した。そして信友に法諱として剣江義鉄を付与し「剣江」の道号頌を書いている。

天文11年(1542年)3月 再び臨済寺に戻り、今川氏輝の七回忌法要で副導師をつとめた。

天文11年(1542年)12月尾張国瑞泉寺 に移り、一年間の輪番住山した。

天文18年(1549年)病を得て、8月中旬から9月末まで下呂温泉の湯之島で湯治をした。そのうち7~8日は近くの禅昌寺に宿泊した。

天文21年(1552年)岩村城主の遠山景前の次男で、苗木遠山氏に養子に入っていた遠山武景と伴に、京都へ旅立った。京都見物を終えた遠山武景は、明叔と別れ、6月に近江を経て鈴鹿山脈を越え伊勢から尾張に渡る舟に乗船中に盗賊に襲われ殺害された。

天文21年(1552年)7月中旬に、明叔が導師となって遠山武景の法要が行われた。 

天文21年(1552年)8月21日 明叔は妙心寺の塔頭大心院にて遷化し圓應大通禅師という諡を賜った。

禅昌寺に残る明叔慶浚の書

岐阜県下呂市の禅昌寺に、法弟の希菴玄密からの求めに応じて明叔慶浚が書いた書が残っている。

  • 「等公首座寄紙需雅厥稱書覚仙述埜偈一篇為證云 覚仙 欝単北矣㷔浮南、到得帰來置一庵、蹈轉明星高着眼、人々個々活●曇 天文十八年己酉龍集六月如意珠日」前妙心現住大圓明叔臾慶浚

異説

駿府今川義元に招かれ臨済寺静岡市)住職であったが[2]、天文10年(1541年)に武田信玄により再興された恵林寺の住職となった。その後、飛騨に戻り、弟の三木直頼が再興した三木氏の菩提寺・禅昌寺の住持となった[2]。『明叔録』を残した

脚注

  1. ^ 伊藤信『濃飛文教史』(博文堂、1937年) 40頁
  2. ^ a b 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年

関連項目

参考文献

  • 岩村町史
  • 中世美濃遠山氏とその一族 横山住雄 岩田書院