戸沢政盛
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正13年(1585年)[1] |
死没 | 慶安元年閏1月22日(1648年3月16日)[2] |
別名 | 九郎五郎[1]、安盛(初名)[3] |
戒名 | 源勝院庭山前公[2] |
墓所 |
東京都港区三田の常林寺 山形県新庄市太田の瑞雲院 |
官位 | 従五位下、右京亮[1][4][5] |
藩 | 常陸松岡藩主→出羽新庄藩主 |
氏族 | 戸沢氏 |
父母 | 父:戸沢盛安[1]、母:側室仙北在家の娘 |
妻 |
正室:真室御前(巨川院、鳥居元忠の娘[4]) 側室:於佐古(久照院、楢岡光信の娘) 側室:天慶院(門屋氏の娘) |
子 |
正誠、娘(戸沢定盛正室)、娘(加藤泰興継室)など2男3女 養子:定盛 |
戸沢 政盛(とざわ まさもり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。常陸松岡藩主、のち出羽新庄藩の初代藩主。戸沢氏第20代当主[1]。出羽角館の戦国大名・戸沢盛安の子。
生涯
生母は盛安が鷹狩に出た際に見初めた小古女沢の百姓・源左衛門の娘。このため身分の低い母を持つ庶子であるため、家督を継ぐ資格がなく、この女性は後に東光坊という山伏に嫁いだため、政盛は百姓の子として育っていた[6]。ところが、父・盛安が天正18年(1590年)に死去し[7]、その跡を継いだ叔父の戸沢光盛も文禄元年(1592年)に死去し[8]、加えて光盛には継嗣がなかったため、戸沢家は断絶の危機に見舞われた。そこで家臣団は、東光坊を斬って盛安の遺児・政盛を奪い取り、至急大坂に上坂させて豊臣秀吉に謁見させ、家督を相続させた[1][8]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に与して上杉景勝の東禅寺城を攻略し[注釈 1]、その功により慶長7年(1602年)、常陸多賀郡、茨城郡などに4万石を与えられ、松岡藩主となる[1]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では小田原城、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では江戸城に詰めて守衛を果たし、徳川家に味方した[1]。
元和8年(1622年)、出羽山形藩の最上家が幕府の命により改易されると、最上家の旧領である最上郡と村山郡に2万石を加増されて新庄に移封され[1]、新庄藩6万石の藩主となり、故郷出羽国への復帰を果たした。その後は藩政確立に尽力した。
慶安元年(1648年)閏1月22日に死去した[1]。享年64[1]。跡を子の正誠が継いだ。
脚注
注釈
引用元
- ^ a b c d e f g h i j k 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544
- ^ a b 「戸沢家譜 戸沢正実差出」
- ^ 『最上郡史料叢書』「戸沢年譜」(葛麓社、1925年)10頁
- ^ a b 大友『シリーズ藩物語 新庄藩』、P19
- ^ 「戸沢家譜」慶長十四年十二月十五日叙任
- ^ 大友『シリーズ藩物語 新庄藩』、P11
- ^ 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P545
- ^ a b 大友『シリーズ藩物語 新庄藩』、P12
参考文献
- 阿部猛 編『戦国人名事典コンパクト版』西村圭子、新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。
- 大友義助『新庄藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2006年8月。ISBN 4-7684-7105-6。
- 東京大学史料編纂所データベースより「戸沢家譜」