張勲 (清末民初)

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張勲
プロフィール
出生: 1854年1月31日
咸豊4年12月14日)
死去: 1923年民国12年)9月11日
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 江西省南昌府奉新県
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 張勳
簡体字 张勋
拼音 Zhāng Xūn
ラテン字 Chang Hsün
注音二式 Jāng Shiūng
和名表記: ちょう くん
発音転記: ジャン シュン
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張 勲(ちょう くん)は清末民初の軍人・政治家。革命後も清朝に忠節を尽す。(あざな)は少軒。号は松寿老人。『松寿老人自叙』という自叙伝がある。

袁世凱死後の1917年(民国6年)、混迷する新政府の動きを見て、すでに退位していた先帝の溥儀を担ぎ、再び即位させて帝政の復古を宣言。いわゆる張勲復辟(ふくへき)事件に発展した。

略歴

清仏戦争に兵隊として参加。その後袁世凱に取り立てられ、義和団鎮圧等に功をなし、光緒帝の警護を勤める。1911年(宣統3年)、江南提督、江蘇巡撫となり、貴族(軽車都尉)になる。

辛亥革命後の民国時代にも、袁世凱への忠義と皇帝への忠義を保ち、若き頃からの苛烈な性格からか、近代化の世に至ってもなお洋装を嫌い、終生にわたり辮髪を切る事はなかったという。そうした姿もあり、後年、辮髪将軍と称された。

民国成立後

1913年民国2年)、孫文の後を受け大総統となった袁世凱は、次第に帝政思想を実現化しようと画策を開始する。これを暴走と見た孫文派の革命功績者たちは袁世凱を倒す為の第二革命を起した。張勲は、袁世凱への忠義から革命派を退け鎮圧に尽力し(その際南京事件を起こす)、その功により江蘇都督に任ぜられ、長江巡閲使、定武軍元帥を歴任する。続く1916年(民国5年)には安徽督軍となった。袁世凱死後の1917年(民国6年)には、時の大総統黎元洪と対立して十三省連合会の盟主に推される。

復辟事件

1917年(民国6年)、対ドイツ問題で黎元洪と政敵・段祺瑞の確執が激化。段祺瑞は、1912年(民国1年)に成立した臨時憲法(中華民国臨時約法)の法規を無視、ドイツに宣戦を布告したのである。大総統の黎元洪は、段祺瑞を断罪し役職を罷免に追い込んだものの、この政治的空白を見た張勲は王政復古によって政権を奪還しようと北京で先帝・溥儀の復辟を宣言する。溥儀にとっては二度目の即位であった。張勲の軍に追われた黎元洪は日本公使館に身柄を保護されることになり、大総統の地位をいったん退いた。このとき、張勲の率いた軍は数千ほどであったとされている。張勲は、幼少の皇帝を擁して自ら議政大臣、直隷総督北洋大臣となり、国会及び憲法を破棄。共和制廃止と清朝の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れ、オランダ公使館に避難。結果、復辟は13日間で挫折した。同年8月、段祺瑞は再び国務総理職に復帰。ドイツ宣戦拡充策を進める。一方、張勲は翌年、特赦を受け、その5年後に他界した。享年70。忠武

参考文献

関連項目

 
先代
程徳全
江蘇巡撫
1911年 - 1912年
次代
(廃止)
先代
張人駿
両江総督
1911年 - 1912年
次代
(廃止)
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
(創設)
江北鎮撫使
1913年7月 - 1914年
次代
(廃止)
先代
程徳全
江蘇都督
1913年9月 - 12月
次代
馮国璋
先代
譚人鳳
長江巡閲使
1913年12月 - 1917年7月
次代
倪嗣沖
先代
倪嗣沖
安徽将軍(署理)
1916年4月 - 7月
次代
(督軍に改称)
先代
(将軍から改称)
安徽督軍
1916年7月 - 1917年7月
次代
倪嗣沖
  張勲復辟
先代
(創設)
内閣議政大臣兼
直隷総督北洋大臣
1917年7月
次代
(廃止)