弘中又一
弘中 又一(ひろなか またいち、1873年 – 1938年8月6日)は山口県出身の教育家である。
人物
- 都濃郡湯野村(現在の周南市)出身。勉強ができて、優秀だったため、独学だけでなく、山口市の私塾で漢文・英語・数学を学んだ[1]。
- 1890年(明治23年)に同志社普通学校(現在の同志社大学)に入学。卒業前の1893年(明治26年)に17歳のタカと結婚、そして、12月に出身地の柳井小学校高等科の英語代用教員になる[2]。
- 卒業後の翌年の1895年(明治28年)に数学教師になり、赴任したのは愛媛県の松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)、その同校に当時の英語教師で、のちの作家となる夏目漱石と出会う。1年間だった。1896年(明治29年)に東予分校(愛媛県立西条高等学校)に転任したが、11月に依願免職し、徳島県の徳島県第二中学校教諭。1900年(明治33年)に埼玉県尋常中学校第二分校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)に赴任するが、1919年(大正8年)に退職、母校の同志社の中学校に赴任した[2]。
- 晩年は京都に住んで、数学を研究した[1]。
- 周南市「弘中又一記念公園」として整備している[3]。
- 夏目漱石の小説「坊っちゃん」のモデルで、坊っちゃんの松山地方の方言「ボンチ」からヒントを得て誕生した[2]。