島津以久
島津以久像(原本は京都市大雲院所蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文19年6月20日(1550年8月2日) |
死没 | 慶長15年4月9日(1610年5月31日) |
改名 | 堯仁坊(幼名)、幸久、征久、以久 |
別名 | 又四郎、右馬頭、相模守(通称) |
戒名 | 高月院殿照誉崇恕大居士 |
墓所 | 京都府京都市の大雲院 |
官位 | 従五位下右馬頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 島津貴久、義久、義弘、忠恒、徳川秀忠 |
藩 | 日向佐土原藩主 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 島津忠将、佐多忠成娘 |
兄弟 | 入来院重豊室、以久、島津忠長室 |
妻 | 池上(北郷時久娘)、松木氏 |
子 | 彰久、入来院重時、花庭玉蓮大姉、忠興、女子 |
島津 以久(しまづ もちひさ[1])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。日向国佐土原藩初代藩主。初名は幸久(ゆきひさ)、次いで同音で征久とし、以久(もちひさ)を「ゆきひさ」と読むのは旧名からきた誤読。
生涯
天文19年(1550年)、薩摩国永吉で生まれる。当主島津貴久の弟忠将が父。忠将は永禄4年(1561年)に戦死したので、叔父貴久、従兄義久に養育される。
永禄8年(1565年)、大隅国帖佐郷を与えられ[2]、長じて父の所領であった大隅の要衝清水城に襲封された。
天正6年(1578年)11月、日向国高城にて大友勢との戦いの時、以久は自ら敵陣に駆け入って奮戦し、これが切っ掛けになって島津勢が勝利したので、以久が第一の軍功として認められた。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州の役に島津氏が敗北すると領地の再編があり、琉球貿易の独占を目指した義久は、種子島氏を薩摩の知覧に移した。これに伴って、天正19年(1591年)、以久は種子島・屋久島・口永良部島一万石を領することになる[2]。その後関ヶ原の戦い直前の1599年には大隅・垂水の領地を与えられることになり、これ以来、垂水は島津忠将の子孫が島津一門として領有していくことになり、これが垂水島津家の興りになることになる。
佐土原藩主
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで島津豊久(従甥)が戦死すると、慶長8年(1603年)、家康との関ヶ原の戦い後の戦後交渉を終えた龍伯(義久)と当主忠恒は、種子島移封後初めて以久を鶴丸城に召し出す。会見では龍伯から家康の意で、関ヶ原の戦い後、幕府直轄地にしていた亡き豊久の旧領である日向那珂郡佐土原3万石を新たに以久に与えると告げられ[2]、その日向佐土原藩の初代藩主となる[1]。後に康元の刀を賜った。
なお以久の孫である島津久信(信久)は豊久の妹を正室に迎え、慶長7年(1602年)には島津久敏を儲けていた。
機会があり徳川家康に拝謁したいと思った以久は、家宝の肩衝茶入を献じた。これが後に「島津肩衝」と名付けられる。
慶長13年(1608年)の駿府城普請を助けた功で、賞誉の御書を受ける。
慶長15年(1610年)、丹波国篠山城の普請のために京都に赴き、上洛中に没した。享年61。
京都四条寺町の大雲院に葬られたが、この時住職に世話になったことから、佐土原藩島津氏は曹洞宗から浄土宗に宗旨替えする。長男は朝鮮の役の際に病没、次男は養子に出ており、跡を三男・忠興が継いだ。法名は「照譽崇恕高月院」
系譜
- 父:島津忠将(1520-1561)
- 母:佐多忠成の娘
- 正室:池上 - 北郷時久長女、のち離縁
- 長男:島津彰久(1567-1595)
- 継室(または側室):松木氏
- 三男:島津忠興(1599-1637)
- 生母不明の子女
脚注
参考文献
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 島津氏」『寛政重脩諸家譜. 第1輯』國民圖書、1922年 。