山村良利
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正11年(1514年)[1] |
死没 | 慶長4年9月6日(1599年10月24日)[1] |
別名 | 通称:三郎左衛門尉[1] |
戒名 | 宗英[2] |
墓所 | 長野県木曽町の興禅寺 |
官位 | 三河守?[2][1] |
主君 | 木曾義康→義昌 |
氏族 | 山村氏 |
父母 | 父:山村良道 |
妻 | 月光院(木曾義在の娘) |
子 | 良候 |
山村 良利(やまむら よしとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国の国衆・木曽氏の家臣。信濃国妻籠城主。『木曽考続貂』では「三河守」としているが、これは確認されていない[1]。
生涯
永正11年(1514年)、山村良道の子として生まれる。山村氏は大江氏の末裔で近江国山村郷から木曽谷に移ったという。山村氏は千村氏、遠山氏らと婚姻し木曽氏の重臣となる。良利は甲斐国の武田氏との取次を務めている[1]。『甲陽軍鑑』によれば、弘治5年(1555年)木曾氏が甲斐国の武田信玄に降ると、信玄の息女で木曽義昌に嫁いだ真竜院に付き添った付家老として千村備前守・「山村新左衛門」を挙げているが、これは誤りであることが指摘される[1]。
永禄7年(1564年)6月9日に義昌が黒沢若宮社(長野県木曽町)に三十六歌仙板絵を奉納した際には、良利が「中納言家持」、子息の良侯が「凡河内躬恒」板絵を奉納している[3]。
元亀3年(1572年)9月、武田信玄の西上作戦に際し良利は飛騨国を攻略し[4]、「山村家文書」によれば、良利は信玄から直接、美濃国恵那郡安弘見で3百貫、千旦林、茄子川の両地でさらに3百貫を与えられた[5][3]。
天正2年(1574年)3月晦日には武田勝頼から美濃の所領を安堵されている[3]。武田氏滅亡後、天正12年(1584年)には羽柴秀吉(豊臣秀吉)から徳川方への牽制を賞されている[3]。天正18年(1590年)に木曽義昌は下総国阿知戸(千葉県旭市)へ転封され、良侯はこれに従うが良利は老齢を理由に辞退し、木曽へ残留する[6]。慶長4年(1599年)9月6日、木曽福嶋で死去。享年86[2][1]。
子孫は尾張藩付属となり代々、木曽谷代官となった。
脚注
- ^ a b c d e f g h 丸島(2015)、p.690
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』第627
- ^ a b c d 丸島(2015)、p.691
- ^ 『木曽考』元亀3年9月26日山村三郎左衛門衛宛信玄書状「飛州の調略別而馳走祝着候、因茲於濃州之内一所可相渡候、名所等可有言上者也、仍如件」
- ^ 『中津川市史』P.611
- ^ 丸島(2015)、pp.690 - 691
出典
- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 第627」『寛政重修諸家譜』 。
- 丸島和洋「山村良侯」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
- 丸島和洋「山村良利」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年