山口愛次郎

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パウロ 山口愛次郎
Paulus Aijirō Yamaguchi
カトリック長崎大司教
教会 カトリック教会
大司教区 カトリック長崎大司教区
着座 1937年11月7日
(大司教昇任 1959年9月27日
離任 1968年12月19日
前任 早坂久之助
後任 里脇浅次郎
他の役職 鹿児島使徒座知牧区長(1936年 - 1937年)
聖職
司祭叙階 1923年12月24日
司教叙階 1937年11月7日
個人情報
出生 1894年7月14日
日本の旗 長崎県西彼杵郡浦上山里村
死去 1976年9月24日(82歳)
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山口愛次郎(やまぐち あいじろう、1894年明治27年)7月14日 - 1976年昭和51年)9月24日)は、カトリック教会司教カトリック長崎大司教区の司教・大司教を務めた。洗礼名は「パウロ」。

1945年(昭和20年)8月9日、長崎市への原子爆弾投下により、爆心地から至近距離(約550m)に在った浦上天主堂は全壊・全焼し破壊され廃墟となった。

戦後、被爆した天主堂遺構の保存が問題となったとき、カトリック長崎司教を務めていた山口愛次郎はその地に遺構を残すのではなく天主堂再建を決断する[1]。1955年から1956年、アメリカ・カナダを訪問し、建設資金獲得等に尽力する。1959年10月に新しい浦上天主堂は完成した[1][2]。戦後14年が経過していたが、信徒にとって「祈り」の場所、浦上天主堂は「復活」した。

来歴[編集]

その他[編集]

関連事項[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 父、山口愛吉は江戸時代の終わりから明治時代の初めにおきたキリシタン弾圧、いわゆる「浦上四番崩れ」によって500名あまりの信徒とともに金沢へ流配された。明治政府は欧米各国から抗議を受け、1874年キリシタン禁制を終わらせる。これにより、やっと1874年に長崎に戻った[3]
  2. ^ 赴任直後、教会で出火。司祭館など教会施設の一部など焼失。火事は周辺民家にも延焼。周辺住民から非難を受け、対応に苦慮する。2年後、火事は放火だったことがわかる[6] 

出典[編集]

  1. ^ a b 高瀬毅 2009.
  2. ^ 長崎教区カトリック浦上教会 (2023年9月16日). “17.浦上天主堂再建(浦上小教区変革史)”. http://www1.odn.ne.jp/uracathe/. 長崎教区カトリック浦上教会. 2023年9月17日閲覧。
  3. ^ 宮崎広和 2021, p. 17.
  4. ^ 高瀬毅 2009, p. 163.
  5. ^ 宮崎広和 2022, p. 17.
  6. ^ a b c d e 宮崎広和 2022, p. 18.
  7. ^ カトリック中央協議会. “カトリック中央協議会-カトリック鹿児島教区(鹿児島県)-教区小史”. https://www.cbcj.catholic.jp/. カトリック中央協議会. 2023年9月17日閲覧。
  8. ^ 宮崎広和 2022, p. 15.
  9. ^ 他には肥塚与四郎、加藤錦の2名。

参考資料[編集]

  • 「市制百年 長崎年表」(1989年(平成元年)4月1日, 長崎市役所
  • 高瀬毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社、2009年7月11日。ISBN 978-4-582-82453-7 
  • 宮崎広和歴史と永遠のあいだ : カトリック長崎司教・山口愛次郎の決断と祈り』(PDF) 43巻、広島大学平和センター〈広島平和科学〉、2022年3月、13-35頁。doi:10.15027/52216NCID AN00213938https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/000522162023年9月17日閲覧 

外部リンク[編集]

先代
早坂久之助
カトリック長崎大司教区
教区長

1937年 – 1968年
次代
里脇浅次郎