小川一真
小川 一眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま、万延元年8月15日(1860年9月29日) - 昭和4年(1929年)9月7日)は、日本の写真家(写真師)。写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(1869-1951)は実弟。
来歴
- 万延元年8月15日(1860年9月29日)武蔵国忍藩(現埼玉県行田市)藩士原田庄左衛門の二男として生まれる。
- 文久三年(1863年)武蔵国行田藩士小川石太郎の養子となり、一眞(かずま)と名を改める。
- 明治6年(1872年)に上京して英語学を修める。
- 明治8年(1875年)写真師を志して、群馬の豊岡町の吉原秀雄に師事して湿版式写真術を会得する。
- 明治10年(1877年)群馬県富岡に「小川写真館」を開く。
- 明治14年(1881年)写真館を廃業して、横浜の下岡太郎次郎(下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学ぶ。
- 明治15年(1882年)、23歳の時、横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に水兵として乗船し、単身渡米留学をする。アメリカでは、旧岸和田藩主の岡部長職の知遇を得て、乾板製法やコロタイプなどの当時最新の写真術を学び、明治18年(1885年)に帰国する。
- 帰国後すぐ、東京府飯田橋に「玉潤会」を設立し、写真師として活躍。数々の名所や風俗・文化財をはじめ、日清・日露戦争、明治天皇の大喪の礼と、近代国家に生まれ変わる日本をその都度フレームに収めた。
- 明治24年(1891年)、凌雲閣(浅草12階)開催の「百美人」コンテストのため写真を撮影。
- 一真は、二人の妻に先立たれていたが、明治36年(1903年)6月2日、12歳年下で板垣退助伯爵の三女、婉(えん)と結婚した。
- 明治43年(1910年)には帝室技芸員の栄誉に輝く。また、写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、写真文化に大きな業績を残した。
- 昭和4年(1929年)9月7日死去。享年70歳。
作品
小川は、小川写真製版所として多くの写真集(写真帖)を刊行している。
ギャラリー
参考文献
外部リンク
- 長崎大学付属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース。2010年12月3日閲覧
- 東京百美人。2010年12月6日閲覧