小代氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。笛吹岬 (会話 | 投稿記録) による 2020年12月18日 (金) 13:11個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

小代氏
団扇に三つ盛亀甲
本姓 有道氏
武蔵七党児玉支流
種別 武家
出身地 武蔵国比企郡小代郷
主な根拠地 武蔵国比企郡小代郷
肥後国
凡例 / Category:日本の氏族

小代氏(しょうだいうじ)は、日本氏族のひとつ。武蔵国で割拠した武蔵七党のひとつであり、児玉党を構成していた。武蔵国比企郡小代郷(しょうだいごう)[注釈 1]本貫地である。家紋は「団扇に三つ盛亀甲」。

来歴

平安時代末期に入西資行の次子・小代遠弘[1]が小代郷を相続し、居住したことに始まる。遠弘の子・小代行平は、治承4年(1180年)に挙兵した源頼朝の下に参陣し、『吾妻鏡』によれば治承・寿永の乱において、源範頼に従って一ノ谷の戦い等で功を挙げ、越後国青木庄・中河保、安芸国見布野庄の地頭職を得た[2]宝治元年(1247年)に発生した宝治合戦では小代重俊が功を挙げ、同年6月23日付けで肥後国玉名郡野原荘(のばらのしょう、現在の熊本県荒尾市周辺)の地頭職を得た。文永8年(1271年)には小代重泰蒙古襲来に備える為に野原荘に下向した。

南北朝時代に小代氏は、武家方として活躍し、永徳3年(1383年)には野原荘全体の地頭職を得た。その後、小代氏は菊池氏と対立し、大友氏の配下に入る。天文23年(1554年)、菊池義武大友義鎮に滅ぼされると小代実忠は豊後筑後・肥後などに広大な所領を得て、肥後屈指の有力国人となる。

天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友義鎮が敗れると、大友氏は一気に衰退し、肥前龍造寺隆信が肥後に進出してくる。小代親忠は激戦の末に龍造寺隆信に屈服し、 龍造寺軍の肥後平定に活躍する。

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、龍造寺氏が一気に衰退すると、親忠の子・小代親泰は島津氏に下り、大友氏攻めに加わる。

しかし、翌天正13年(1585年)に豊臣秀吉が大友氏救援を口実にいわゆる九州征伐に乗り出すと、小代親泰は周辺国人らと同様、秀吉の下に参陣し、大幅に減らされてものの所領安堵状を交付された。肥後に佐々成政が新領主として下向して来たが、肥後国人の多くが所領を削られた。これに不満を抱く国人たちは肥後国人一揆を起す。一揆は結局鎮圧され、多くの国人が処分され、佐々成政も改易される。小代親泰は一揆発生時、大坂にいたため、責任を問われることはなかった。肥後は南部を小西行長、北部を加藤清正に分割統治されることとなる。小代親泰は加藤家に仕官し、4135石を与えられ、重臣として遇された。寛永9年(1632年)に加藤家が改易され、細川家が新領主として入府すると、小代氏は細川家に仕えた。

史跡

  • 青蓮寺(東松山市正代)
  • 筒ヶ岳城跡(熊本県荒尾市府本)
  • 梅の尾城跡(熊本県荒尾市府本)
  • 浄業寺(熊本県荒尾市宮内出目)

史料

  • 「小代文書」熊本県 編『熊本県史料 中世篇 第1』熊本県、1961年。全国書誌番号:49000883 

脚注

  1. ^ 現在の埼玉県東松山市正代(しょうだい)周辺。
  1. ^ 国書刊行会 編「武蔵七党系図」『系図綜覧 第二』国書刊行会〈国書刊行会刊行所〉、1915年、479-480頁。 
  2. ^ 熊本県 1961, pp. 138–139

参考文献

  • 福島正義『武蔵武士 : そのロマンと栄光』さきたま出版会、1990年5月。ISBN 4878910402