安田国継
「太平記英勇伝四十八:安田作兵衛国次(落合芳幾作)」 | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 慶長2年6月2日 (1597年7月16日) |
改名 | 安田作兵衛国継→天野源右衛門貞成 |
別名 | 通称:作兵衛 |
霊名 | 善要智仙人禅定門 |
墓所 | 佐賀県唐津市浄泰寺 |
主君 | 明智光秀(斎藤利三)→羽柴秀勝→羽柴秀長→蒲生氏郷→立花宗茂→寺沢広高 |
安田 国継(やすだ くにつぐ、弘治2年(1556年) - 慶長2年6月2日[1] (1597年7月16日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は作兵衛。講談では安田作兵衛の名で知られ、明智三羽烏の一人とされている[2]。
生涯
弘治2年(1556年)、美濃国安田村にて誕生。幼名は岩福[要出典]。
はじめ、織田氏の重臣・明智光秀配下の斎藤利三に仕えた。天正10年(1582年)に光秀が主君・織田信長に対して起こした本能寺の変では、その先鋒となり出陣。信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を挙げたという武勇伝がある[3]。
ところが明智氏が山崎の戦いにて敗走すると、出奔して天野源右衛門と改名して浪人した。羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長続きせしなかった。
かつて討った成利の兄である森長可に武勇を見込まれて召抱えられた。しかし、小牧・長久手の戦いにて長可が戦死すると、森氏を出奔し再び浪人した[要出典]。
立花宗茂に仕え、豊臣氏による九州平定にて功があったという。また、文禄・慶長の役では朝鮮へ出陣。講談では『天野源右衛門覚書』(『立花朝鮮記』または『朝鮮軍記[4]』)を執筆したことになっているが、これは幕末に別人が書いた俗書(赤本)である[5]。
最後は寺沢広高に仕え、8000石を有した。なお『翁草』によれば、若き日の国継と寺沢広高が、どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える約束をしたといわれる。晩年は姓を平野に改名した。
慶長2年(1597年)に死去。享年42。死因は頬の出来物の悪化を苦にしての自害という。なお、死んだ日は奇しくも織田信長の命日と同日であり、信長を刺した祟りと噂された。墓所は佐賀県唐津市浄泰寺。法名、善要智仙人禅定門[1]。
脚注・出典
- ^ a b 『柳川史話』
- ^ 安田作兵衛のほかは、箕浦新左衛門豊茂、古川九兵衛(九平)兼友の三名。
- ^ 『森家先代実録』を出典とする逸話。
- ^ 旭堂南慶『国立国会図書館デジタルコレクション 安田作兵衛 : 朝鮮軍記』中村鍾美堂、1895年 。
- ^ 八切止夫『謀殺 : 続・信長殺し、光秀ではない』作品社、出版年。ISBN 4878935154。
参考文献
- 双竜斎貞鏡(他) 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本豪傑美談』金桜堂、1896年 。(講談)
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1973年。
- 岡茂政 著、柳川郷土研究会 編『柳川史話』青潮社、1984年。
- 川口素生『織田信長101の謎 : 知られざる私生活から、「本能寺の変」の真実まで』PHP研究所、2005年。ISBN 4569664318。