妙法寺 (鎌倉市大町)
妙法寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 神奈川県鎌倉市大町4-7-4 |
位置 | 北緯35度18分46.24秒 東経139度33分32.3秒 / 北緯35.3128444度 東経139.558972度 |
山号 | 楞厳山 |
宗派 | 日蓮宗 |
本尊 | 一塔両尊四師 |
創建年 | 建長5年(1253年)(延文2年(1357年)) |
開基 | 日蓮(開山)、日叡(中興開山) |
正式名 | 楞厳山 妙法寺 |
別称 | 松葉ヶ谷 妙法寺 |
法人番号 | 4021005001977 |
妙法寺(みょうほうじ)は神奈川県鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院。山号は楞厳山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)
歴史
建長5年(1253年)に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、現在も境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑がある。ただし、ごく近隣の安国論寺、長勝寺も、それぞれ松葉ヶ谷草庵跡を称しており、すべて開山は日蓮、創建は草庵が置かれた建長5年としている。
実質的な開山は日蓮より数えて第5世となる楞厳法親王妙法房日叡(りょうごんほうしんのうみょうほうぼうにちえい)で、延文2年(1357年)のことである。後醍醐天皇の子・護良親王と藤原保藤の娘・南方(みなみのかた)の間に生まれた日叡は日蓮を偲び、かつ父・護良親王の菩提を弔うためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山法妙寺と名付けた。境内奥右手山頂には護良親王の墓が、左手山頂には母・南方と、日叡自身の墓がある。
1500年代初頭、第11世日澄は日蓮の生涯を描いた絵詞「日蓮聖人註画讃」、法華経研究書である「法華経啓運抄」などを著し、学僧として名を上げた。日澄は後、文明15年に鎌倉材木座に啓運寺を開く。
江戸時代には、特に水戸光圀創建による水戸三昧堂壇林出身の第32世日応、第33世日慈が寺門隆盛に努め、11代将軍家斉はじめ将軍家および徳川御三家、肥後細川家などの尊崇を集めた。総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは将軍家斉を迎えるためであったとされ、明治中期までは境内に将軍御成の間が遺されていた。また、現在の本堂は文政年間に肥後細川家により建立されたものである。
また、江戸庶民にも信仰され、しばしば江戸において出開帳を行い、隅田川永代橋において日本初とされる川施餓鬼(水死者を弔う施餓鬼)も行っている。
境内
- 本堂-文政年間、肥後細川家により、幼くして亡くなった細川家息女の菩提を弔うため建立。
- 大覚殿-釈尊を中心に左に妙法稲荷大明神、右に細川家寄進による、かつて熊本城天守閣に祀られていた加藤清正像を安置。
- 扇塚-仁王門左にある舞扇を供養する塚。
- 薩摩屋敷焼討事件戦没者墓-同じく仁王門左にある。幕末の慶応3年12月に起きた三田の薩摩藩邸焼討事件の戦没者を祀る。元は薩摩藩邸内の妙法寺の支院「清正公堂」にあり、1995年に現在地に移転。
- 苔石段-仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」「苔の寺」とも呼ばれる。苔の保護のため通行止めとなっており、脇に新しい階段が作られている。
- 日叡上人お手植のそてつ-中興開山・日叡が手ずから植えたとされる釈迦堂跡脇の蘇鉄。
- 法華堂-釈迦堂跡の右手にあり、文化年間に水戸家により建立。本尊は日叡作の厄除祖師。
- 奥の院御小庵趾-釈迦堂跡左手、鐘楼脇の階段上にあり、日蓮が20数年に渡って住んだ松葉ヶ谷草庵跡とされる。
- 護良親王御墓-後醍醐天皇第三王子であり中興開山・日叡の父である護良親王の墓。小庵趾より右手に登った山頂にある。なお、護良親王の墓とされるものは鎌倉市二階堂の理智光寺跡にもあり、そちらが正式な墓として宮内庁管理下にある。
- 日叡上人御墓・南の方御墓-小庵趾より左手山頂にある。
交通
参考文献
- 松葉谷 妙法寺発行パンフレット
- 新倉善之『日蓮伝小考:「日蓮聖人註画讃」の成立とその系譜』立正大学文学部論叢10, 110-144, 1959-01
拝観料
300円