南明
- 南明
- 大明
-
← 1644年 - 1662年 →
→
南明成立期の最大領域-
公用語 古代漢語 首都 南京→紹興→福州→肇慶 現在 中華人民共和国
中華民国(連江県、金門県)
ミャンマー -
1.台湾に拠った鄭成功の子孫が1683年まで抗戦を続け、明の命脈を保った。
2.南明に公式な国旗は存在しない。
南明(なんみん)は、明が首都の北京を失ったのち、明の皇族によって1644年から1662年までの間に華中、華南に立てられた地方政権の総称である。
概要
1644年に北京は順の李自成に陥落させられ、崇禎帝は万歳山で自殺した[1][2]。副都の南京の官僚は江南へ退避していた皇族の中から新帝擁立を試み、史可法ら東林派は朱常淓を、馬士英ら反東林派の官僚や盧九徳ら宦官は万暦帝の孫の福王朱由崧を推した。5月、朱由崧は南京へ入り即位し(弘光帝)[1]、史可法らは失脚する。だが、この間に清軍が満洲から中国本土へ侵入して呉三桂ら旧明臣を傘下に入れながら順を滅ぼし、華中・華南へと進出を図っていた。1645年4月、清軍の侵攻を受けて南京が陥落し、弘光帝の政権は崩壊した。
1645年6月、魯王朱以海[1]が擁立され、監国と称して紹興に亡命政権が立てられた。同時に福州で鄭芝龍や黄道周らに擁立された唐王朱聿鍵が即位し(隆武帝)[1]、ここに南明は2つの政権が並立する状態となった。朱以海と隆武帝は正当性を巡って争ったが、1646年6月には紹興などが清軍に攻略され、朱以海は海上へ逃れて鄭成功(鄭芝龍の子)の元へ身を寄せた。これにより隆武帝が唯一の皇帝となるが、1646年8月に福州は清軍の侵攻を受け、隆武帝が捕らえられて政権は崩壊した[2]。その後、弟の朱聿𨮁が皇位を継ぐ(紹武帝)が、これも同年のうちに清軍に敗れて自殺した。
1646年10月、瞿式耜らに擁立された桂王朱由榔(弘光帝の従弟)が肇慶[1]で監国を称し、11月に即位して(永暦帝)政権が成立する。鄭成功や張煌言らは各地で抵抗し、一時は清を圧倒したが、永暦帝はビルマで呉三桂に捕らえられて[2][3]雲南へ連れられ、1661年に昆明で殺された[1]。一方、朱以海を保護する鄭成功は清への反攻の拠点を確保するために台湾へ進出し、1662年に政権を樹立したが、同年中に朱以海と鄭成功が病死して南明の滅亡は決定的となった。その後も鄭成功の子孫によって抵抗は続けられる[1]が、1683年に鄭克塽が清へ降伏し、復明の道は絶たれた。
皇帝
- 安宗弘光帝(朱由崧、在位1644年 - 1645年)万暦帝の孫。福王朱常洵の長男。
- 紹宗隆武帝(朱聿鍵、在位1645年 - 1646年)洪武帝の九世の孫(二十三男朱桱の子孫)。唐王。
- 紹武帝(朱聿𨮁、在位1646年)隆武帝の弟。唐王。
- 昭宗永暦帝(朱由榔、在位1646年 - 1661年)万暦帝の孫(桂王朱常瀛の四男)。永明王。