十二所 (鎌倉市)
十二所 | |
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北緯35度19分9.29秒 東経139度34分38.3秒 / 北緯35.3192472度 東経139.577306度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川県 |
市町村 | 鎌倉市 |
地域 | 鎌倉地域 |
面積 | |
• 合計 | 2.66 km2 |
人口 | |
• 合計 | 1,316人 |
• 密度 | 490人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
248-0001[3] |
市外局番 | 0467 (藤沢MA)[4] |
ナンバープレート | 横浜 |
十二所(じゅうにそ)は神奈川県鎌倉市鎌倉地域にある大字。鎌倉市の北東端に位置し、横浜市金沢区と接する。住居表示未実施区域[5]。郵便番号は248-0001[3]。
地理・歴史
地名の由来は、天保9年(1838年)まで光触寺境内にあった鎮守熊野三山の「熊野十二所権現社」(現在の十二所神社)に由来する[6]。『新編鎌倉志』では「民家が十二軒あったことによる」と記載されているが[7]、これは俗説である。
初見は文和4年(1355年)9月の『頬焼阿弥陀縁起奥書』に「十二所道場」と記載されている。この道場は光触寺を指している。熊野社は「大倉の熊野堂」と称し、鎌倉における熊野信仰の拠点であった。
上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏が岩殿寺から十二所を経て小坪、由比ヶ浜、佐助へと逃走したという記録が残っている[6]。
天正19年(1591年)の「徳川家康寄進状」では十二所において建長寺、東慶寺両寺の寺領が寄進されている。幕末には五十八貫余の寺領があった。『新編相模国風土記稿』において二階堂村の項に、十二所村民戸26戸と記載され[8]、明治3年(1870年)には家数42戸、人別198人とされている。
世帯数と人口
2018年(平成30年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
十二所 | 546世帯 | 1,316人 |
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[9][10]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 鎌倉市立第二小学校 | 鎌倉市立第二中学校 |
交通
道路
施設
行政施設
- 鎌倉霊園
名所・旧跡
寺社
史跡
関連項目
脚注
- ^ “平成28年(2016年)版鎌倉の統計”. 鎌倉市. 2018年2月22日閲覧。
- ^ a b “鎌倉の人口と世帯数(地域・町丁・字別)”. 鎌倉市 (2018年1月26日). 2018年2月22日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年2月22日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年2月22日閲覧。
- ^ “鎌倉市の町名称及び住居表示の実施状況”. 鎌倉市 (2017年2月7日). 2018年2月22日閲覧。
- ^ a b 新編相模国風土記稿 十二所村.
- ^ 新編鎌倉志 1915, p. 41.
- ^ 新編相模国風土記稿 二階堂村上.
- ^ “鎌倉市の市立小学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
- ^ “鎌倉市の市立中学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
- ^ 髙瀨彌一の祖父と父渡部瞭、鵠沼を語る会
参考文献
- 「山之内庄二階堂村上」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之90村里部鎌倉郡巻之22、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179229/176。
- 「山之内庄十二所村」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之93村里部鎌倉郡巻之25、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/7。
- 河井恒久 等編 編「巻之二 十二所村」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、41頁。NDLJP:952770/35。
- 奥富敬之 『鎌倉史跡事典』 新人物往来社 1999
- 三浦勝男編 『鎌倉の地名由来辞典』 東京堂出版 2005
二階堂 | 横浜市栄区上郷町 | 横浜市金沢区みず木町 | ||
浄明寺 | 金沢区朝比奈町 | |||
十二所 | ||||
逗子市久木 | 逗子市池子 | 金沢区六浦町 |