前野長義

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前野長義
時代 室町時代戦国時代
生誕 文安4年(1447年
死没 永正9年(1512年
別名 前野小二郎(通称)
幕府 室町幕府尾張国守護代家臣
主君 織田大和守家(織田敏定織田敏信
氏族 良岑氏流前野氏
父母 父:前野時正、母:梶原佐衛門尉
兄弟 前野長義前野康正前野義広
安井弥二郎妹(安井小次郎娘)
前野正義前野宗康、(前野)坪内忠勝前野義高坪内勝定
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前野 長義(まえの ながよし)は、戦国時代土豪武将)。前野家十一代目当主[1]通称小二郎本姓良岑前野長康の父であるとされる前野宗康の父[1]

略歴

尾張国の土豪である前野家の当主前野時正嫡男として1447年文安4年)に生まれる[1]。長義は、当時の織田大和守家当主織田敏定および織田敏信織田信定の兄)に仕えていたとされている。

長享元年(1487年9月室町幕府9代将軍足利義尚による第一次六角征伐(長享の乱・鈎の陣)の際には、主君の敏定に従って尾張守護斯波義寛の軍に従軍して上洛し、六角行高軍と戦って武功を挙げた。

延徳3年(1491年)8月、室町幕府9代将軍足利義材による第二次六角征伐(延徳の乱)の際にも主君の敏定に従って斯波義寛軍に従軍して遠征・上洛し、武功を挙げた。

長義は織田家の忠実な家臣であり、前野家8代高康の代から代々織田伊勢守家の系統である織田大和守家、岩倉織田家清洲織田家に仕えてきた前野家は長義の代も織田大和守家に仕えていたとされるが、長義の嫡男前野正義犬山織田家の織田信清に仕え、長義の次男である前野宗康とその子である前野宗吉・前野長康は、信定の孫で織田弾正忠家当主である織田信長のもとで岩倉織田家の城である岩倉城攻めの際に起きた浮野の戦いに参加しているため、前野家が織田伊勢守家の系統の家臣として働いていたのは少なくとも長義の代までであるとされている。前野家古文書『武功夜話』によると13代前野宗康の代まで織田伊勢守家の系統の岩倉織田家に仕えていたという。永正9年(1512年)に没すると、嫡男の前野正義が家を継いだ。

前野氏について

前野氏は、桓武天皇の子の良岑安世を始祖とする良岑氏の系統で、良岑高成(原高成)の子である前野高長もしくはその曽孫である前野時綱尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町〜大口町辺り)に移り住んで前野を名乗ったのが始まりとされている[2]。また良岑高成の娘は、平清盛の父である平忠盛側室であったともいわれ、高成の娘と忠盛の間に平忠度を産んだともされている。

武功夜話について

武功夜話(ぶこうやわ)は、戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した家譜の一種であり、前野家文書ともいわれる。ただ、用いられている語彙の一部は現代人にも容易に理解できるものがあり、資料としてのの信頼性は低いという意見もあるが、この記事ではこの武功夜話の記述を軸としている。

系譜

注釈

  1. ^ a b c 前野家古文書『武功夜話
  2. ^ 尊卑分脈および良岑氏系図