准胝観音

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准胝観音(じゅんていかんのん)、梵名チュンディー(चुन्दी [cundii])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊である。準胝観音とも書く。六観音(七観音)の一尊にも数えられる。元はヒンドゥー教の女神ドゥルガーが仏教に観音(如来)として取り入れられた姿である。

また七倶胝仏母(しちくていぶつも)、梵名サプタコーティブッダ・マートリ(सप्तकोटिबुद्धमातृ [saptakoTibuddhamaatR])とも呼ばれる。

三昧耶形賢瓶 、五鈷金剛杵甲冑種子はボ(bu)。真言は「オン シャレイ シュレイ ジュンテイ ソワカ」(oM cale cuule cundii svaahaa)などが知られる。

概説

日本では「准胝観音菩薩」、「准胝観世音菩薩」、「准胝仏母」、「天人丈夫観音」などさまざまな呼称がある。異称のひとつ七倶胝仏母(サプタコーティブッダ・マートリ)とは「七千万の仏の母」という意味で、この仏母(これは女性名詞である)が、人を悟りに導いて数限りない仏を誕生させる宇宙の神性の擬人化であることを示す。

准胝観音は密教で特に重視される。真言宗の開祖である空海高野山の開基の際に、僧房の次にまず准胝堂を建立し、准胝観音を弟子たちの得度の本尊としてお祀りしたのは有名で、のちに高野山が荒廃した際にも僧俗の手によって庫裡にこの准胝観音を安置し守り続けられた。それゆえ、准胝堂の建て替えが行なわれる昭和の時代まで、高野山では准胝堂で得度の儀式が行なわれていた。また、真言宗小野流の始祖・聖宝がこれに倣って醍醐寺の開基に准胝尊を勧請し、その後も長く民衆の信仰を集めている。中国密教では唐密に配し、江戸時代には禅密兼修の黄檗宗の開祖・隠元和尚によって中国流の准胝仏母の尊像と密法がもたらされ、禅宗でも祀られるようになった。同時代には、長崎の出島で中国人から中国密教と戒律を学び、時の天皇の師となり、尾張公の庇護をうけて尾張(名古屋)や江戸(東京)の地に准胝信仰を広めた天台宗の豪潮律師なども知られている。

真言宗小野流などでは観音に分類され、同流派の醍醐寺上醍醐准胝堂(西国三十三箇所第11番札所)の本尊は准胝観音である。一方、天台宗系では「准胝仏母」と呼称。准胝仏母は仏眼仏母などと同じ仏母尊とされ、菩薩部(観音もここに分類される)でなく如来部に分類する。

経典によると、准胝の修法をなす者は、清穢及び出家・在家を問わずに飲酒肉食し、かつ妻子あるも仏道修行を達成するという。また、心の働きを清浄にするほとけであり、「仏の母」という名から、安産、子授けの功徳もあるとされている。聖宝が准胝に祈って朱雀天皇村上天皇を授かったという伝説も残されている。

六観音の役割では六道のうち人間界を摂化するという。なお、天台系では前述のとおり准胝を観音とは認めないため、代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。また准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。

その像容は一面三眼十八臂とするものが多い。手の本数が多いことから千手観音と混同される場合もある。

日本では准胝観音単独の造像例はあまり多くない。真言宗智山派の寺である京都・大報恩寺(千本釈迦堂)の六観音像(重要文化財)中には准胝観音像がある。奈良・新薬師寺旧蔵の伝・千手観音立像(重要文化財、文化庁保管)は、その像容から本来は准胝観音像と考えられている。