伝単

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太平洋戦争時、1945年8月1日に米軍が撒いた伝単
8月1日夜に爆撃する都市を列挙しているものの、高岡については長岡の誤記の可能性が高い。
日本軍による日華基本条約一周年の伝単。基本国策要綱で規定された東亜新秩序建設の国是に基づく。

伝単(でんたん)とは、戦時において敵国の民間人、兵士の戦意喪失を目的として配布する宣伝謀略用の印刷物(ビラ)。その語源は物事を伝える紙片という意味の中国語である。

概要

西洋では古くから用いられた戦略的な宣伝手段で、フランスでの市民蜂起「パリ・コミューン」においてフランス政府が上空より気球で撒いたものが最初といわれている。 第一次世界大戦飛行機が登場すると更に大量配布が可能となり、相当の効果があるとされ軍事的に重用な宣伝謀略の手段とされた。

第二次世界大戦では、各国とも数千万枚とも数億枚ともいわれる伝単を印刷し、飛行機を用いて広域に散布している。日本軍上海入りした1937年頃から効率的に散布できるこの方法を採用し、展開を試みた。中国戦線では中国兵向け、南方戦線のインドシナではイギリス軍兵士、オーストラリア軍兵士向けの伝単を散布した。また、中国兵士向けには、投降を促すために、同志票(日本軍司令部名義)、軍隊歸來證(南京国民政府軍事委員会名義)、和平建國參加證(日本軍司令部および華北軍政委員会の連名)などを撒いていた[1][2]。日本軍の初期の伝単は、活字と写真だけで構成されたが効果は芳しくなく、窮余の策でマンガ入りの伝単を中国戦線向けに制作した。このマンガ入りの伝単はイラストが目をひき、中国の一般民衆に読まれた。以降、日本軍参謀本部の下で伝単づくりは組織的に行われた。

日本上空の制空権を握ったアメリカ軍は、連日B-25爆撃機等で、空襲の目標となる都市に大量の「空襲予告」の宣伝ビラを散布した[3]。これを拾った者は憲兵警察へ届けることになっていたが、確実な予告ビラであることからリアリティに富み、日本の民衆心理に効果をあげた。また南方戦線では抵抗を続ける日本兵向けに「投降票」「安全通行証」[4] が撒かれている。

第二次世界大戦中に米軍が投下した十円紙幣を模した伝単

他にも、一般市民の目に付きやすく手に取られやすいようにするため紙幣に似せたものもあり、日本で使用されたものは当時流通量が多かった十円紙幣(丙拾圓券)の図柄が用いられた。

イギリス軍フランス国ポール・エリュアールの「自由」を印刷した紙を散布、フランス国民そしてレジスタンスの士気を鼓舞した。

脚注

  1. ^ 抗战时期侵华日军发行之军队归来证等共2件 上海泓盛拍卖有限公司
  2. ^ 抗战时期,日军向中国军民投放的传单 湖南抗日战争纪念网 2014年11月29日
  3. ^ “【戦後70年】予告された空襲、困窮する生活 1945年8月1日はこんな日だった”. HUFFPOST. (2015年7月31日). http://m.huffingtonpost.jp/2015/07/28/news-august-1_n_7886258.html 2018年1月18日閲覧。 
  4. ^ 掲げて投降すれば生命は保証するというものである。

参考文献

  • 一ノ瀬俊也『戦場に舞ったビラ 伝単で読み直す太平洋戦争』(講談社選書メチエ、2007年)

関連項目