中谷貞頼

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なかたに さだより
中谷 貞頼
中谷 貞頼
中谷貞頼の肖像写真
本名 中谷 貞頼
生年月日 (1887-02-08) 1887年2月8日
没年月日 (1954-11-21) 1954年11月21日(67歳没)
出生地 日本の旗 日本 茨城県
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家映画製作者弁護士政治家
ジャンル 映画
配偶者 中谷春枝
著名な家族 浅井和子(長女)
中谷健 (長男)
中谷明(次男)
中谷俊(孫)
中谷元(孫)
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中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年[1] - 1954年)は、日本の実業家映画製作者弁護士政治家である。大正から昭和初年にかけて衆議院議員であり、日本活動写真(日活)の専務取締役、代表取締役社長として映画を製作した。衆議院議員の中谷元は孫[2]

来歴・人物[編集]

1887年(明治20年)、茨城県に士族・中ノ内昌為の四男として生まれる[3]

幼少時に母の兄弟であった、もと土佐藩士で大審院判事や樺太地方裁判所長などを務めた中谷速水の養子となった。

東京帝国大学法学部独法科を卒業した。内務省に入省し、広島県警察、東京警視廳(現在の警視庁)勤務を経て、弁護士となった。

明治漁業取締役、露領水産組合副会長を務め、1907年(明治40年)に締結された日露漁業協約の1918年(大正7年)の改定に向けての会議では、漁業者代表最高顧問としてロシアモスクワへ派遣された。

1912年(大正元年)9月10日に設立された映画会社・日本活動写真(日活)の取締役に就任する。

43歳になる1920年(大正9年)5月10日、高知県の選挙区で憲政会から衆議院議員に立候補するも落選、1924年(大正13年)5月10日の同選挙で当選した。1928年(昭和3年)2月20日の衆議院議員選挙からは立憲政友会から立候補し、当選している。同一選挙区に浜口雄幸がいた。以降、1936年(昭和11年)2月20日の選挙で落選するまで、連続4期でつとめた。

1932年(昭和7年)8月、当時日活の専務取締役だった中谷は、日活太秦撮影所の名物所長・池永浩久を初めとする約200名を解雇、自らが同撮影所長を兼務した。1934年(昭和9年)に日活社長に就任。東京都調布市多摩川日本映画株式会社撮影所を買収、「日活多摩川撮影所」とし、現代劇部を京都から移転した。当初、中谷が所長を兼務したが、のちに根岸寛一に交代した。 また同年、日活京都撮影所製作部長だった永田雅一が中谷と衝突し、永田は日活を退社る[4]第一映画を設立している[5]。第一映画社の創業にあたり、俳優や映画館主の引き止めなどで混乱が生じた[6]。中谷は騒動の責任を取って、のちに日活社長を辞任している。以後の日活はライバルの松竹と東宝の争覇上に置かれる、隷属会社的存在となる。

1954年(昭和29年)、68歳で死去。

おもなフィルモグラフィ[編集]

家族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、30頁。
  2. ^ 中谷 貞頼コトバンク、2018年10月16日閲覧。
  3. ^ 中谷貞頼『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  4. ^ 日活中谷社長と衝突、辞表提出『東京朝日新聞』昭和9年8月23日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p492 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 立命館大学公式サイト内の水口薫の論文「アート・リサーチセンター 1999年度秋季連続講演会 第3回「京都の映画の昔と今」」の記述を参照。
  6. ^ 日活社長、館主やスターの遺留に奔走『大阪毎日新聞』昭和9年8月25日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p492)
  7. ^ 川淵龍起『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

関連事項[編集]

外部リンク[編集]