一条房家

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一条房家
一条房家像
時代 戦国時代
生誕 文明7年(1475年)または文明9年(1477年
死没 天文8年11月13日1539年12月23日
戒名 藤林寺殿正二品東泉大居士
墓所 高知県宿毛市平田町の藤林寺
官位 正二位権大納言
氏族 土佐一条氏
父母 父:一条教房
母:中納言局(町顕郷の養女、加久見宗孝の娘)
兄弟 政房房家、尊仁
正室:平松資冬の娘
房冬房通、尊快、房忠教行兼朝、盛岳、教快、娘(西園寺公宣室)、娘(津野基高室)、娘(町顕冬室)
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一条 房家(いちじょう ふさいえ)は、戦国時代公卿関白一条教房の次男。土佐一条氏の初代当主[1]

経歴[編集]

文明7年(1475年)(『公卿補任』)または文明9年(1477年)(『大乗院雑事記』)に関白一条教房の次男として誕生。兄の政房とは30歳近く年が離れており、房家の誕生時には既に兄は戦死していた。

土佐一条氏は、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向して、土佐に在国しながら、公家として高い官位を有しつつ、土佐国最南端部に位置する幡多郡及び高岡郡(高知県西部)を支配した「地域権力」である[2][3]。「戦国公家大名」とされてきたが、このような概念は、極めて曖昧な概念で、一条氏が武家化した存在であったとしても、戦国大名とは言えないとする説がある[4][5]

明応3年(1494年)、18歳で元服、正五位下、左近衛少将になる[6]。房家自身もその名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築き、土佐一条氏の最盛期を築き上げた。本拠地の中村には「小京都」と呼ばれるほどの街を建設した。なお、現在の四万十市にある東山や鴨川という地名は、房家が京都にちなんで名づけた地名であるといわれる。

また、永正5年(1508年長宗我部兼序本山氏によって滅ぼされると、その遺児・長宗我部国親を保護し、その再興を助けた。永正6年(1509年)、三条西実隆と詩歌のやりとりや、実隆を通じて宸筆詩歌懐紙を所望しており文芸活動を確認できる(『実隆公記』)[7]

天文8年(1539年)11月13日薨去享年65または63。最終官位は前権大納言正二位。

官歴[編集]

注記のないものは『諸家伝』による。

系譜[編集]

注記のないものは『系図纂要』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『中村市史 正編』205頁
  2. ^ 中脇 2013.
  3. ^ 中脇 2015.
  4. ^ 中脇聖「戦国末期土佐一条氏家臣『康政』の地位と権限(上)」(『土佐史談』220号、2002年)
  5. ^ 中脇聖「戦国期一条氏の家領維持政策に見る福原荘と幡多荘」(『年報赤松氏研究』4号、2011年)
  6. ^ 『中村市史 正編』195頁
  7. ^ 中脇 2017.
  8. ^ a b 『歴名土代』
  9. ^ 『大内義隆記』

参考文献[編集]

  • 中脇聖「戦国末期土佐一条氏家臣『康政』の地位と権限(上)」(『土佐史談』220号、2002年)
  • 中脇聖「戦国期一条氏の家領維持政策に見る福原荘と幡多荘」(『年報赤松氏研究』4号、2011年)
  • 中脇聖「土佐一条兼定権力の特質について」(『十六世紀史論叢』2号、2013年)
  • 中脇聖「摂関家の当主自らが土佐国に下向する」(日本史史料研究会監修・神田裕理編『ここまでわかった戦国時代の天皇と公家衆たち』洋泉社、2015年)
  • 中脇聖「土佐一条房冬と禁裏・古岳(嶽)宗亘の関係をめぐって」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』第2巻、岩田書院、2017年)
  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年
  • 中村市史編纂室編『中村市史 正編』(1969年)

関連項目[編集]