安芸高田ワクナガハンドボールクラブ

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ワクナガレオリック
基本情報
正式名 湧永製薬ハンドボール部
愛称 レオリック
創設 1969年
所属リーグ
日本リーグ
本拠地
本拠地 広島県安芸高田市
役員
監督 中山剛
ユニフォーム
1st
2nd
外部リンク
[公式サイト 公式サイト]
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ワクナガレオリックWAKUNAGA LEOLIC)は、広島県安芸高田市(旧・高田郡甲田町)を本拠地に活動する、日本ハンドボールリーグに加盟する男子ハンドボールチームである。

概要

母体は湧永製薬。1969年に創部。2007年から愛称を「レオリック(LEOLIC)」に、由来は湧永の製品である「レオピン」とその原料「ガーリック(にんにく)」からとった造語である。ユニフォームカラーは「赤」。 ホームは安芸高田市にある湧永満之記念体育館

日本ハンドボール界の盟主的存在で、幾人もの日本代表選手を輩出する強豪チームである。

歴史

1969年4月、ミュンヘンオリンピックでハンドボールが正式種目に復活した流れを受けて、ハンドボーラーだった後の二代目社長・湧永儀助の発案で、市原則之木野実ら8名の部員で創部。当初の本拠地は大阪市で練習場探しにも苦労していた。また会社の社名も知られておらず、テレビ局が「ゆうえい」などとアナウンスしたため、急遽カタカナ表記で試合に臨んだ逸話が残る。年々、有望新人がチームに加わり強豪チームに成長。

1970年、全日本総合選手権で全国デビューし初出場で決勝進出。決勝の相手は当時の王者・大崎電気(現・大崎オーソル)。延長の末惨敗したものの、日本代表メンバーを散りばめた両者の激突は、ハンドボール界に新時代の夜明けを告げるものだった。この一戦で一躍トップチームにのし上がると同年、岩手国体大同特殊鋼大同特殊鋼フェニックス)の主力で固めた全愛知を降し初のタイトル獲得。その後、長きに渡り二強時代を形成する「湧永―大同」の宿命の対決のこれがプロローグで、湧永の台頭で大同などがチーム作りに本腰を入れ、本格的な実業団時代が到来した。

1976年、本拠地を創業者・湧永満之の故郷・甲田町に移転。大阪では練習場探しに苦労したため、練習の便宜を考え専用コートを持つ広島工場に移す会社の強化策の一つでもあった。

2007年よりチーム愛称を「レオリック(LEOLIC)」とした。同年9月30日の対豊田合成戦で、日本リーグ史上初のチーム通算1万得点を突破した。記念すべき1万点目は山口修の得点だった。

2009年、トキめき新潟国体で優勝。国体では7年ぶり、主要大会では2007年全日本実業団選手権以来の優勝となった。[1]

日本ハンドボールリーグには1976年の発足以来1部に所属している古豪であり、日本代表にも多数の選手を輩出、全日本総合選手権では7連覇を含む優勝13回、日本ハンドボールリーグ8回、全日本実業団選手権16回、国体18回(広島県選抜も含む)の優勝、四冠2度を誇り1970年代から1990年代には、日本ハンドボール界の盟主的存在として君臨した。全国タイトルは計55回で、大同特殊鋼に次ぐ多さを誇る。 但し日本ハンドボールリーグの優勝(全国2位・8回)は第22回(1997-1998年シーズン)を最後に遠ざかっている。

獲得タイトル


  • 全日本総合選手権 : 13回


  • 全日本実業団選手権 : 16回


  • 国体 : 18回


スタッフ・メンバー

2015年11月現在
  • オーナー:湧永寛仁
  • 部長:斉藤正
  • 監督:中山剛
  • コーチ:杉山裕一
  • 1:志水孝行(GK)
  • 2:谷村遼太(LB)
  • 3:松本崇聖(PV)
  • 4:坂本伸博(LW)
  • 5:
  • 6:野村浩輝(RW)
  • 7:
  • 8:小賀野龍也(RB)
  • 9:佐藤智仁(CB)
  • 10:稲毛隆人(RW)
    • 11:
    • 12:伊藤浩太郎(GK)
    • 13:
    • 14:仁平昌利(LB)
    • 15:今井昭仁(PV)
    • 16:
    • 17:子安貴之(LW)
    • 18:中浦成崇(CB)
    • 19:新名亮介(LW)
    • 20:小川航生(RB)
    • 21:桑野弘規(RB)
    • 22:荻原良太(GK)
    • 24:シグフス・パウル・シグフソン(CB)



    歴代監督

    所属した主な選手(代表選手)


    普及活動

    1978年、甲田町内3小学校である甲立小学校小田小学校小田東小学校を対象に、選手を派遣しハンドボール教室を開始。1991年、甲田中学校でハンドボール部が創部されたのを期に選手を派遣し指導を開始。2000年、向原高校でも指導を開始した。[2]

    現在でも、地元甲田町のハンドボール普及に務めており、その一環としてトップス広島にも参加している。また、2008年には甲田町出身のレオリック選手を輩出した。

    関連項目

    参考文献・脚注

    • 湧永製薬ハンドボール部創部30周年記念誌 湧永製薬ハンドボール部OB会(会長・市原則之) 1999年6月
    • 金枡晴海著『広島スポーツ100年』 中国新聞社 1979年
    • 河野徳男著『広島スポーツ史』 財団法人広島県体育協会 1984年5月
    1. ^ 中国新聞 (2009年10月7日). “湧永、7年ぶり美酒 新潟国体ハンドボール成年男子”. 2009年10月7日閲覧。
    2. ^ 中国新聞 (2000年5月27日). “企業の支援”. 2010年2月16日閲覧。

    外部リンク