レジーナ・マリーア (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
NMS レジーナ・マリーア
レトゥーチイ
レジーナ・マリーア
艦歴
レジーナ・マリーア
Regină Maria
起工 1928年 パティッソン・ヤード
所属 ルーマニア王国海軍
進水 1929年3月2日
竣工 1930年
レトゥーチイ
Летучий
改称 1944年9月14日
所属 赤色海軍黒海艦隊
ソ連海軍黒海艦隊
除籍 1951年7月3日
レジーナ・マリーア
Regină Maria
編入 1951年7月3日
所属 ルーマニア人民共和国海軍
退役 1950年代
除籍 1960年代
要目[1]
艦種 駆逐艦
艦級 レジェーレ・フェルディナンド級
排水量 1,850 t (満載)/1,400 t(常備)
全長 101.90 m
全幅 9.6 m
喫水 3.5 m
機関 蒸気タービン2 基 44,000 馬力
推進 2
速力 36 kn
航続距離 2,739 /13 kn
乗員 212 名
武装 (1941)[2] 120 mm 単装 5 門
76.2 mm 単装高角砲 1 門
37 mm SK C/30 高角砲 2 門
13.2 mm 2連装基 2 門
533 mm 3連装魚雷発射管 2 門
爆雷投射機 2 門
機雷 50 門
装甲 なし

NMS レジーナ・マリーア(ルーマニア語:Regina Mariaレジーナ・マリーヤ)は、ルーマニア海軍駆逐艦(Distrugător)である。艦名は、ルーマニア王妃マリアに因む。

概要[編集]

建造[編集]

レジーナ・マリーアは、ルーマニア王国海軍向けのレジェーレ・フェルディナンド級駆逐艦の2番艦としてソーニクロフト社によって設計された。1928年イタリアナポリパティッソン・ヤードで起工、1929年3月2日進水1930年9月に就役した。

艦は、533 mm魚雷発射管6 門を第2煙突と後檣との間に装備していた。また、艦橋前に2 門と、艦中部に1 門、後部に2 門の合わせて5 門の120 mmを搭載していた。この他、若干の対空兵装を有していた。射撃管制装置としては、前後の艦橋に測距儀が備え付けられていた。

実戦[編集]

第二次世界大戦中は主に船団護衛に従事した。1941年6月26日ソ連嚮導駆逐艦モスクワハリコフによりコンスタンツァ砲撃が行われた際、駆逐艦マラシュティアミラル・ムルヂェスク沿岸砲部隊と共にソ連駆逐艦に対し砲撃を行った。この戦闘中にモスクワは爆沈した[3]

レジーナ・マリーアは1941年11月4日にソ連の潜水艦M-58を撃沈した[4]

1944年8月29日、コンスタンツァにあったレジーナ・マリーアは侵攻してきた赤軍によって捕獲された。9月14日にルーマニアが降伏するとレジーナ・マリーアは戦利艦として正式にソ連の所有物となり、赤色海軍黒海艦隊に編入された。同時に、艦名は「空飛ぶ」という意味のロシア語形容詞からレトゥーチイ(Летучий)と改称された。

返還[編集]

レトゥーチイは1951年7月3日付けでソ連海軍を除籍され、ルーマニアに返還された。かつての王政は倒されていたにも拘らず、艦名は元のレジーナ・マリーアに戻された。1950年代末に退役、1960年に除籍された。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Conway's All the World's Fighting Ships 1922–1946, p. 361
  2. ^ Jipa Rotaru, Ioan Damaschin, Glorie și dramă: Marina Regală Română, 1940-1945, Ion Cristoiu Publishing, 2000, p. 255
  3. ^ 原因は触雷。ただし、ソ連潜水艦による雷撃説もある。
  4. ^ John Smillie, World War II Sea War, Vol 4: Germany Sends Russia to the Allies, p. 389

外部リンク[編集]