リカルド・サ・ピント

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リカルド・サ・ピント
名前
本名 リカルド・マヌエル・デ・アンドラーデ・ダ・シルヴァ・サ・ピント
Ricardo Manuel de Andrade da Silva Sá Pinto
愛称 リカルド・コラソン・デ・レオン
ラテン文字 Ricardo Sá Pinto
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1972-10-10) 1972年10月10日(51歳)
出身地 ポルト県ポルト
身長 178cm
体重 71kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
ユース
1986-1987 ポルトガルの旗 ポルト
1987-1991 ポルトガルの旗 サルゲイロス
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1994 ポルトガルの旗 サルゲイロス 57 (17)
1994-1997 ポルトガルの旗 スポルティングCP 77 (20)
1997-2000 スペインの旗 レアル・ソシエダ 70 (6)
2000-2006 ポルトガルの旗 スポルティングCP 97 (14)
2006-2007 ベルギーの旗 スタンダール・リエージュ 21 (2)
代表歴
1994-2001 ポルトガルの旗 ポルトガル 45 (9)
監督歴
2010-2011 ポルトガルの旗 ウニオン・レイリア (アシスタント)
2012 ポルトガルの旗 スポルティングCP
2013 セルビアの旗 レッドスター・ベオグラード
2013-2014 ギリシャの旗 OFI
2014-2015 ギリシャの旗 アトロミトス
2015 ポルトガルの旗 ベレネンセス
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

リカルド・サ・ピント (Ricardo Sá Pinto) ことリカルド・マヌエル・デ・アンドラーデ・ダ・シルヴァ・サ・ピント(Ricardo Manuel de Andrade da Silva Sá Pinto、1972年10月10日 - )は、ポルトガルポルト出身の元同国代表の元サッカー選手。現サッカー指導者。現役時代のポジションはFW

闘志溢れるプレーや性格からスポルティングCPのファンからは、リカルド・コラソン・デ・レオン(Ricardo, Coração de Leão、ポルトガル語で「獅子心王リチャード」のこと)と呼ばれている[1]

経歴

現役時代

ポルトに生まれたサ・ピントは、地元のSCサルゲイロスでプロデビューしてから程なくしてU-21ポルトガル代表に選出され、UEFA U-21欧州選手権1994で決勝に進出した。

1994-95シーズンにトップリーグの強豪スポルティングCPと契約を締結。スポルティングで安定したプレーを披露した後、スペイン1部レアル・ソシエダと契約し、1998年8月30日の移籍後初出場となったレアル・オビエド戦(ホーム3-3)で公式戦初得点を挙げた。

レアルで70試合6得点を記録(1年間の出場停止処分により出場は2シーズン)後、スポルティングへ復帰し6シーズンの在籍で最終的に主将を務めたが、幾度もの怪我に悩まされていた[2][3]。2006-07シーズンに同胞のセルジオ・コンセイソンと共にベルギー1部スタンダール・リエージュ(同胞のジョルジュ・コスタが夏に同クラブで引退)へ移籍[4]し、35歳間近で引退した[5]

指導者時代

2009年11月初旬にスポルティングCPへ戻ったサ・ピントは、元同僚のペドロ・バルボーザに代わりディレクター職に就任すると、まず手始めに成績不振を理由に同クラブのパウロ・ベント監督を解雇した[6]。2010年1月21日、タッサ・デ・ポルトガルCDマフラ戦(ホーム4-3勝利)後にロッカールームでリエジソンと衝突し殴り合いに発展したため、辞表を提出した[7]

2010年にペドロ・カイシーニャ英語版監督の下でUDレイリアのアシスタントに任命され、指導者としての一歩を踏み出した。2012年2月13日、スポルティングCPのユースチームを率いていたところ、トップチームのドミンゴス・パシエンシア監督が解任されたため、暫定ながら後を引き継いだ[8]。リーグ戦を4位で終え、タッサ・デ・ポルトガル決勝で優勝を逃したが、2012年5月25日に契約が2年延長された[9]。しかし、UEFAヨーロッパリーグ 2012-13で元同僚のパウロ・ソウザ監督率いるヴィデオトンFCに0-3で敗れたことで10月4日に解任された[10]

2013年3月8日にセルビア1部の強豪レッドスター・ベオグラードの監督に就任[11]し、最初のリーグ戦8試合で勝利を収めたが、クラブ上層部との意見の相違から6月19日に退任した[12]

代表

サ・ピントは、ポルトガル代表として45試合9得点を記録。1994年9月7日にベルファスト北アイルランド戦(2-1勝利)でA代表初出場を飾る。UEFA EURO '96では、グスープステージ初戦のデンマーク戦 (1-1) で得点。UEFA EURO 2000にも招集された。

1997年3月26日、サ・ピントは自身が試合に招集されていない知らせを聞くと、リスボンエスタディオ・ナシオナルで代表チームが練習している中で突如現れ、アルトゥール・ジョルジェ監督の顔を殴る暴挙に出る。そのため、クラブ及び代表での出場を1年間禁止された[13]

2002 FIFAワールドカップは怪我の影響から選出されなかったため、2001年6月6日のキプロス戦(6-0勝利)が代表での最後の試合となった。

タイトル

クラブ

ポルトガルの旗 スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル

脚注

  1. ^ Sá Pinto espera "ser feliz" no Sporting” (ポルトガル語). UEFA (2012年2月14日). 2012年7月8日閲覧。
  2. ^ "Sá Pinto's misery continues"
  3. ^ "サ・ピントがひざを負傷"
  4. ^ "Portugal's Sa Pinto joins Standard Liege"
  5. ^ "Português Sá Pinto anuncia aposentadoria"
  6. ^ "Sá Pinto wird Sportdirektor"
  7. ^ "Sporting director quits after reported fracas"
  8. ^ "スポルティングがパシエンシア監督を解任"
  9. ^ "スポルティング、サ・ピント監督と契約延長"
  10. ^ "スポルティングがサ・ピント監督を解任"
  11. ^ "ツルベナ・ズベズダの新監督にサ・ピント氏"
  12. ^ "Sa Pinto quits as Crvena Zvezda coach"
  13. ^ "Sá Pinto forced into early retirement"

外部リンク