マルキ・ド・サド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。119.241.228.9 (会話) による 2012年4月3日 (火) 11:04個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

マルキ・ド・サド
Marquis de Sade
マルキ・ド・サド Marquis de Sade
本名 ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(Donatien Alphonse François de Sade)
生年月日 (1740-06-02) 1740年6月2日
没年月日 (1814-12-02) 1814年12月2日(74歳没)
出生地 パリ
死没地 パリ
国籍 フランス
職業 作家
配偶者 ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユ
著名な家族 ジャン・バティスト・フランソワ・ジョゼフ・ド・サド
マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン
主な作品
ジュスティーヌあるいは美徳の不幸
ソドム百二十日あるいは淫蕩学校
テンプレートを表示

マルキ・ド・サドMarquis de Sade1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族小説家。正式な名は、ドナスィヤン・アルフォーンス・フランスワ・ド・サドDonatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。

サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリ刑務所精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヶ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものである。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。

生涯

生い立ちと教育

マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデ(かつてのコンデ公の邸宅。現在のパリ6区リュ・ド・コンデ、ヴォージリアール付近)にて、伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフ・ド・サドと、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会のリセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。

1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]

1766年、サドはプロヴァンス州ラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。

その名の通り、サディズムを突き詰めた書籍を発表。しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。

所有権と相続人

サドは伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。

復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」、「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」等の不品行のかどで何度か投獄され(マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている)、獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。サドはフランス革命直前までバスティーユ牢獄に収監されていたが、革命の影響で1790年に釈放される。だが、政治活動を行うも再び投獄された。後にナポレオン・ボナパルトによって「狂人」とされ、1803年にシャラントン精神病院に入れられてそこで没した。

オーストリア精神医学リヒャルト・フォン・クラフト=エビングは、「異常性欲」について、「フェティシズム」、「同性愛」、「サディズム」、「マゾヒズム」の4つに分類している。このうちの「サディズム」は、相手に対して、精神的で身体的な屈辱と苦痛を与えることによって性的な快楽や満足を得ることを意味し、クラフト=エビングは、サドの名前に因んで「サディズム」と名付けた。

サドの作品は、作者の精神状態を反映してか特に暴力的な描写において文法的に破綻を来してしまっているようなところが数多いが、20世紀に入ってから、そういった点がシュルレアリストたちによって再評価され、全集の出版が行われることになる。日本には木々高太郎式場隆三郎田辺貞之助丸木砂土こと秦豊吉遠藤周作澁澤龍彦片山正樹たちによって紹介された。澁澤による『悪徳の栄え』の翻訳出版を巡って引き起こされた悪徳の栄え事件は、澁澤側の有罪(罰金刑)を以て終わった。

河出文庫などから出版されている澁澤の翻訳は、全訳ではなく抄訳のものが多い。異常心理学の研究者である佐藤晴夫が全訳を試みており、それらは未知谷青土社から出版されている。

主な作品

関連項目

脚注

  1. ^ Love, Brenda (2002). The Encyclopedia of Unusual Sex Practices. UK: Abacus. pp. p145. ISBN 0-349-11535-4 
  2. ^ Vie du Marquis de Sade by Gilbert Lêly, 1961

外部リンク


Template:Link FA Template:Link FA