ソドム百二十日あるいは淫蕩学校

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ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(フランス語: Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage[1])は1785年にマルキ・ド・サドバスティーユ牢獄で著した未完の小説である。サドの最初の本格的な作品であった。この作品は未完の状態でしか残っておらず、もしサドが1789年に原稿を紛失していなければ恐らく書き続けたであろう形では伝わっていない。ミシェル・デュロンが論じたように[2]、未完成なのではなく「想像力を超えたものを表現する」こと自体ができなかった可能性もある。

原稿の歴史[編集]

バスティーユ牢獄の「巻紙」
「愛書家の購読者の費用で」出版されたモーリス・エーヌによる1931年の版

1785年10月22日に、サドは作品の押収を避けるため、草稿のテクストを幅12センチの小紙片を糊付けして作った長さ12.1メートルの薄い巻紙の両面に、小さくぎっしり詰まった文字で清書して書き写した。この作業は37日間かけて、午後7時から10時の間に行われた。

1789年7月3日から4日にかけての夜、即席で作ったメガホンを使って壁の下に集まった群集を扇動しようとしたサドは、自身の言葉によると「蛆虫のように裸のままで」シャラントン精神病院へと連れ去られた。このため、彼はこの原稿を含む全ての私物をバスティーユに置き去りにせざるを得なかった。牢獄は陥落し、略奪・破壊され、サドは原稿も草稿も取り戻すことができなかった。このような作品の喪失はサドに、その言葉によると、「血の涙」を流させた。

ジルベール・ルリがバスティーユの侯爵当人の部屋からアルヌー・ド・サン=マキシミンによって発見された草稿の辿った道筋を再構成した。草稿はヴィルヌーヴ=トラン家が入手し、3代に亘り所有していた。19世紀末に草稿はベルリンの精神科医イヴァン・ブロッホへ売却され、ブロッホは1904年にオイゲン・デューレンの偽名で多数の転写ミスを含む最初の版を公刊した。

1929年にモーリス・エーヌシャルル・ド・ノアイユ子爵の委託を受け草稿を購入し1931年から1935年にかけて(検閲を避けるため「愛書家の購読者」限定で)出版し、その品質からこれが真正の原典版と考えられている。

1985年に、草稿は子爵の子孫によって売却され、ジュネーブの(主にエロティックな)稀覯書蒐集家であるジェラルド・ノルトマン(1930-1992)の手に渡った。草稿は2004年になって初めて、ジュネーブ近郊のマーチン・ボードマー基金[3]にて公開された。

あらすじと登場人物[編集]

ルイ14世治世の終わり頃、「殺人と汚職により莫大な財産を有する」45歳から60歳の4人の精神異常者であるブランジ公爵、公爵の兄弟である司教、キュルヴァルの法院長、財務官デュルセが真冬にシュヴァルツヴァルトの古城シリング城に集まり、彼ら4人の絶対権力の下に置かれた42人の犠牲者、4人の遣り手婆、8人の絶倫男と共に閉じ籠る。犠牲者は4人の妻(それぞれがそれぞれの娘と婚姻している)と、両親の下から誘拐された若い少年少女たちである。4人の遣り手婆=「語り女」たちが、1ヶ月交代で1人150話ずつ計600の倒錯した物語を語り、主人たちはしばしばその場でそれを実行に移す。作品は日誌の形で構成され、4ヶ月と「単純(性交を伴わない)」「複合」「犯罪」「殺人」の4種の情熱に対応した4部からなる(第1部は完成されているが、残りは素案のみと思われる)。犠牲者はありとあらゆる性的虐待と恐ろしい拷問の末に大半が殺される。

評価[編集]

この作品を最初に出版したブロッホ博士は、ありとあらゆる性的フェティシズムの徹底的なカテゴリ化には「医学者や、法学者や、人類学者たちにとって……科学的な重要さがある」と評している。ブロッホは『ソドム百二十日』をリヒャルト・フォン・クラフト=エビングの『性的精神病理』と同等に考えていた。フェミニズムの著述家シモーヌ・ド・ボーヴォワールは1955年にフランス当局がサドの主要4作品の破壊を企てた時に『我々はサドを焚書にすべきなのか?』というエッセイを書いて『ソドム百二十日』を弁護した。

他方、同じくフェミニズムの著述家であるアンドレア・ドウォーキンはこの作品が「不潔なポルノグラフィ」であり、作者はミソジニー(女性嫌悪)の体現であり、また特に強姦拷問殺人が男性の人物によって専ら(全てではないが)女性の犠牲者に対して行われるのであると断罪した。

著名なサド研究家であるアリス・ラボルドは、ドウォーキンが「テクストの風刺小説的な要素を意図的に誤読している」と攻撃した。さらに、ラボルドはサドの言葉遣いや人格の、象徴するのではなく意味する機能に重点を置いた『ソドム百二十日』観を唱道した。ラボルドにとってはテクストの「女性嫌悪的な」要素は、社会批判とフランス語の言語体系の再発明の両方の手段となった。

アンジェラ・カーターは著書『The Sadeian Woman』において『ソドム百二十日』の2人の登場人物について詳細に論じ、サドは「道徳的なポルノグラファー」であると解説している。

カミール・パーリアはサドの作品をとりわけ「ジャン=ジャック・ルソーへの風刺的回答」であり、より一般的には啓蒙思想時代の、人間の生まれながらの善性という概念への風刺的回答であると見做している。この本に登場する性暴力の多くはジル・ド・レイバートリ・エルジェーベトの悪名高い歴史的な事例から引き出されたものである。

映画作品[編集]

ルイス・ブニュエル監督、ブリュエルとサルバドール・ダリ脚本のシュルレアリスム映画『黄金時代』(1930)の最後の場面で、インポーズの語りが120日間の堕落した行為の饗宴――『ソドム百二十日』への言及――を説明し、この饗宴の生存者が出現すると予告する。城の扉から、髭を生やし長いローブを纏った、キリストに非常に良く似たブランジ公爵が現れる。若い娘が城から走り出てくると、公爵は彼女を慰めるが、それから城内に連れ戻ってしまう。大きな悲鳴が聞こえ、ローブに血を浴び、髭のなくなった公爵が再び現れる。

ピエル・パオロ・パゾリーニ(1922-1975)が、殺害される寸前に『サロ、またはソドムの120日』(邦題『ソドムの市』)という題名でシリング城の世界をファシズム末期のイタリアに、権力をローマからサロに置き換えた映画を制作した。同時代人の多くはこれを史上最も物騒な映画だと考えた。しかしながら、この映画には強姦、食糞、四肢切断などの恐怖シーンこそあれ、実際に小説に出て来る邪悪な営為にはほとんど触れていない。世界各国で上映禁止とされた。

脚注[編集]

  1. ^ プレイヤード叢書版によると「原稿では題名は数字で『ソドムの120日』と書かれていた。モーリス・エーヌ、ジブレ・レリやその他の註釈者の大部分もこの特殊な表記を忠実に尊重している。アニー・ル・ブリュンやジャン=ジャック・ポヴェールによる新版では(中略)表記の現代化のために文字に置き換えており、我々もこの表記を採用する。」(note 1 de la page 13 figurant page 1,134 du tome I des Œuvres de Sade de la Bibliothèque de la Pléiade, 1990, 1363 pages, ISBN 2-07-011190-3.)
  2. ^ Michel Delon, Sade en son temps, Éditions Textuel, 2007.
  3. '^ Fondation Bodmer - La bibliothèque Gérard Nordmann, Éros invaincu

参考文献[編集]

  • Marquis de Sade, Les 120 journées de Sodome ou L'école du libertinage, vol. XIII avec des préfaces de Maurice Heine, de A. Hesnard, de Henri Pastoureau et de Pierre Klossowski, in <<...Œuvres complètes du Marquis de Sade...>> en XV volumes, Cercle du Livre précieux (hors commerce), Paris, 1964
  • Gilbert Lely, Vie du marquis de Sade (avec un examen de ses ouvrages), vol. I et II (avec une postface d'Yves Bonnefoy), in << Œuvres complètes du Marquis de Sade >> en XV volumes, Cercle du Livre précieux (hors commerce), Paris, 1964. Rééditions partielles : Jean-Jacques Pauvert éditions, Paris, 1965 ; avec une préface de Philippe Sollers, éditions du Mercure de France, Paris, 2004 ISBN 2715225326
  • Annie Le Brun, Petits et grands théâtres du marquis de Sade, Paris Art Center, Paris, 1989

関連項目[編集]

外部リンク[編集]