バスティーユ牢獄

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座標: 北緯48度51分12秒 東経2度22分6秒 / 北緯48.85333度 東経2.36833度 / 48.85333; 2.36833

バスティーユ外観

バスティーユ牢獄(バスティーユろうごく、: Bastille, Bastille Saint-Antoine)は、もともとは要塞で、シャルル5世の治世下に建てられ、フランス革命前には政治犯や精神病者を収容した牢獄として使われていた旧体制アンシャン・レジーム支配の象徴とされた建物。バスチーユの牢獄[1]やバスティーユ監獄とも言う。またバスティーユ要塞とも日本では言われるが、フランス語では「バスティーユ」だけで要塞の意味がある[2]

フランス革命が勃発したときに民衆の暴動により襲撃されたが、このときは武器を得る目的で襲撃したとも、レヴェイヨン事件[3]の報復だったとも言われている。

ただし解放された囚人は7人(精神障害者2人、文書偽造犯4人、非行貴族1人)で、政治犯はいなかった[4]

概要[編集]

バスティーユの見取り図

フランス国内に3箇所あった国立刑務所の一つで、パリの東側を守る要塞として1370年に建設された。サン=タントワーヌ地区という場所にあるので、バスティーユ・サン=タントワーヌ(サン=タントワーヌ要塞の意味)とも言う。

中世のパリ市は全周を城壁で囲まれた城郭都市であり、バスティーユはその内郭の一つにあたる。約30mの垂直の城壁と8基の塔を有し、周囲を堀で囲まれ、入口は2箇所の跳ね橋だけであった。その後、パリは人口が増加して城壁の外にも市街地が広がったことと、中世の構造物のためにバスティーユそのものが大砲の時代には軍事的価値を持たなくなったが、この侵入が困難で出入口が制限される構造が刑務所に向いていると判断された。

ここを国事犯の収容所としたのはルイ13世宰相リシュリューであり、これ以降バスティーユには国王が自由に発行できる「勅命逮捕状」によって捕らえられた者(主に謀反を起こそうとした高官たち)が収容されるようになった。

ルイ14世の時代に、王政を批判した学者なども収容されるようになり、またこの頃から収容者の名前を公表しなくなったため、市民たちにいろいろと邪推されるようになった。

囚人がバスティーユに連行される際、馬車の窓にはカーテンがかけられ外から覗くことは不可能であり、さらに出所する際には監獄内でのことは一切しゃべらないと宣誓させられた。また牢獄内では名を名乗ることは禁じられ「○○号室の囚人」と呼ばれていた。

バスティーユは人間だけを収容するわけではなく、危険視された物は勅命逮捕状によっていかなる物でも収容された。有名な例としては「百科全書」が押収保管された事がある。

1776年から最後の要塞の司令官はド・ローネー侯爵ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー[5]であった。バスティーユ襲撃後、要塞は解体処分された。

実態[編集]

一般に、バスティーユは残虐非道な監獄であると誤解されているが、実情はかなり異なる。部屋は5m四方であり、天井までは8mある。窓は7mの高さにあり、鉄格子がはまっているものの、外の光は十分に入り込む。

また囚人は、愛用の家具を持ち込むこともでき、専属のコックや使用人を雇うことすら可能だった。 食事も豪勢なものであり、昼食に3皿、夕食には5皿が出され、嫌いなものがあれば別のものを注文することができた。

牢獄内ではどのような服装をしようが自由であり、好きな生地、好きなデザインで服をオーダーできた。 また図書館、遊戯室なども完備されており、監獄内の囚人が病気などになった場合は国王の侍医が診察した。このため、他の監獄で病人が出たとき、病院ではなくバスティーユに搬送することがあった。 このように環境が整っているため、出所期限が訪れても出所しなかったり、何ら罪を犯したわけでもない者が債権者から逃れるために入所したこともある。

1774年ルイ16世即位からバスティーユ襲撃の1789年まで、収容された人数は合計288人であるが、このうち12人が自ら望んで入所している。

アンリ・ガリ公園にあるバスティーユ要塞の基盤遺構

前述のようにフランス語の「bastille」は固有名詞ではなく、単に「要塞」を意味する語に過ぎないが、定冠詞を付け大文字でLa Bastilleと書いた場合は“パリのバスティーユ”を指す。要塞と言う意味に限定されず現在はこの広場付近の地区を指す語でもあるため、要塞であることを強調したい場合はla forteresse de la Bastille(ラ・フォルトレス・ド・ラ・バスティーユ)という表記をすることもある。

要塞は革命後に解体され、現在はバスティーユ広場[6]となっており、広場中央には革命の記念柱[7]が立っている。広場に面しては、かつて郊外線のバスティーユ駅があったが、廃止後に解体され、現在はオペラ・バスティーユが建てられている。

現在はメトロバスティーユ駅の5番線Bobigny行きホームに、この要塞の壁の遺構の一部を見ることが出来る。またバスティーユ広場より少し離れたセーヌ川沿いのスクウェア・アンリ=ガリ[8]という小さな公園に、丸型の基盤の遺構の一部が移され保存されている。

脚注・出典[編集]

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  1. ^ 『中学社会 歴史』(教育出版中学校 社会科用 平成8年2月29日 文部省検定済。教科書番号:17教出 歴史762)p 156, 157に「国王がこの動きを武力でおさえようとすると, 国民議会を支持するパリの民衆は, 専制の象徴であったバスチーユの牢獄をおそった。」と記載されている。
  2. ^ つまり「バスティーユ要塞」は「ライフル銃」と同じ二重表現で、文法上は好ましくない
  3. ^ 革命直前に起こった壁紙工場の労働者の暴動事件。工場長のレヴェイヨンはネッケルによってバスティーユに匿われた。(Jean-Baptiste Réveillon
  4. ^ 襲撃後に解放された収監者の中にはマルキ・ド・サドはおらず、実際にはマルキ・ド・サドは、フランス革命の直前までバスティーユに収監されていて、その数日前にシャラントラン=サン=モーリス修道院に移送されていた
  5. ^ Bernard-René de Launay
  6. ^ 広場というが、実際には11本の道が集まるラウンドアバウト式の交差点である
  7. ^ 1789年のフランス大革命ではなく、1830年の7月革命記念柱(Colonne de Juillet)となっている
  8. ^ Square Henri-Galli。アンリⅣ世通りとセルスタン通り、プティ・ミュスク通りの三叉路にある小公園

関連項目[編集]