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フィリップ・エマニュエル・ド・ロレーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィリップ・エマニュエル
Philippe-Emmanuel
メルクール公
在位 1577年 - 1602年

出生 (1558-09-09) 1558年9月9日
ロレーヌ公国
ノムニー(現ムルト=エ=モゼル県
死去 (1602-02-19) 1602年2月19日(43歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ニュルンベルク
配偶者 パンティエーヴル女公マリー・ド・リュクサンブール
子女 フィリップ・ルイ
フランソワーズ
家名 ロレーヌ家
父親 メルクール公ニコラ
母親 ジャンヌ・ド・サヴォワ
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フィリップ=エマニュエル・ド・ロレーヌPhilippe-Emmanuel de Lorraine, duc de Mercœur et de Penthièvre, marquis de Nomeny, Baron d'Ancenis, 1558年9月9日 - 1602年2月19日)は、ドイツ=フランス系のロレーヌ公爵家の一員で、フランスの貴族、軍人。メルクール公(在位:1577年 - 1602年)及びパンティエーヴル公爵(在位:1576年 - 1602年)。

生涯

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ロレーヌ公アントワーヌの息子であるメルクール公ニコラと、その2番目の妻でヌムール公フィリップの娘ジャンヌ・ド・サヴォワの間の長男として生まれた。異母姉のルイーズはフランス王アンリ3世の王妃となった。1576年、パンティエーヴル公セバスティアンの一人娘で女子相続人のマリー・ド・リュクサンブール(1562年 - 1623年)と結婚し、パンティエーヴル公爵位を継承した。

1582年、義兄の国王アンリ3世によりブルターニュ半島の知事に任命された。フィリップ=エマニュエルはブルターニュにおけるカトリック同盟の指導者となり、1588年にはブルターニュにおけるカトリック教会の守護者となることを宣言した。妻マリーが旧ブルターニュ公爵領の統治者の血筋を引くことを背景に、フィリップ=エマニュエルはブルターニュに自らを統治者とする独立国家を樹立する野心を抱いており、ナントに政権を樹立した。

フィリップ=エマニュエルは1592年スペイン軍の支援を受け、国王アンリ4世が彼の野心を砕くために派遣したモンパンシエ公 (enの軍勢をクラオンで撃退した。しかし国王軍はイングランドの軍事支援を受け、すぐに優勢に立った。やがてブルターニュ以外のカトリック同盟を降伏させ、ユグノー戦争で優位に立ったアンリ4世はフィリップ=エマニュエルを逮捕・連行させ、1598年3月20日アンジェにおいて、自分に忠誠を誓わせた。

野心を挫かれたフィリップ=エマニュエルはハンガリーに移り、そこで神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に仕えてトルコ人と戦った。1599年にはセーケシュフェヘールヴァールを占領している。

子女

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妻マリーとの間に2人の子女をもうけた。

脚注

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参考文献

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  • St François de Sales. Oraison funèbre de Philippe-Emmanuel de Lorraine, duc de Mercœur et de Penthièvre. Introduction de Pierre-Olivier Combelles. Editions Saint-Rémi (Cadillac), 2006.[1]
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Mercœur, Philippe Emmanuel de Lorraine". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 18 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 154.
先代
マリー・ド・リュクサンブール
パンティエーヴル公
1576年 - 1602年
妻マリーと共治
次代
フランソワーズ
先代
ニコラ
メルクール公
1577年 - 1602年
次代
フランソワーズ