ハインリヒ7世 (ドイツ王)

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ドイツ王・ハインリヒ7世

ハインリヒ7世(Heinrich VII., 1211年 - 1242年2月10日[1])は、ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の長男。母はアラゴン王女コンスタンサ(コンスタンツァ)。1220年から1235年までドイツ王の地位に就いていたが廃位されたために正統の国王として認められず、通常は「ハインリヒ(7世)」と括弧書きされる[2]。異母弟にコンラート4世、サルデーニャ王エンツォアンティオキア公フリードリヒ3世、マンフレーディらがいる。さらに異父兄にハンガリー国王ラースロー3世がいる。

生涯

1211年にハインリヒはフリードリヒ2世とコンスタンサの子としてシチリア島で生まれる。1212年に神聖ローマ皇帝オットー4世の対立王に選出されたフリードリヒ2世がシチリア島を発つ際にハインリヒがシチリア王位に就けられ、コンスタンサが摂政とされた[3]。フリードリヒ2世がアーヘンで神聖ローマ皇帝に即位した後、ハインリヒはコンスタンサとともにドイツに移住する。1217年にハインリヒにシュヴァーベン公位が授与され、1219年にはブルゴーニュ王国の執政権が移譲された。

フリードリヒ2世はドイツ王が持つ特権の放棄を諸侯に約束し、その代償として1220年春のフランクフルトの帝国会議でハインリヒがドイツ王に選出される[4][5]。フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝即位に際して皇帝権力とシチリア王位の一体化の断念を約束していたが、彼の後継者であるハインリヒがドイツ王とシチリア王を兼任したことでシュタウフェン家の下での帝権と王権の一体化が実現する[4]ケルン大司教エンゲルベルト、バイエルン公ルートヴィヒ1世の保護に置かれた後、1228年からハインリヒは親政を開始する[6]。しかし、ハインリヒはフリードリヒ2世から完全に独立した状態で政務を執ることができず[6]、ハインリヒの立場は属州の総督に例えられている[7]

ハインリヒが20歳に達したころには、父のフリードリヒ2世と不仲であることが知れわたっていた[8]。ハインリヒがフリードリヒ2世の政策に疑問を抱いた理由としては、イタリアでの王権強化策とドイツでの諸侯の地位を尊重する相反する姿勢、親子のカトリック信仰心の差異、ドイツの財政難が挙げられている[9]。また、ハインリヒはボヘミア王国の王女アネシュカ(アグネス)との結婚を望んで、既に子をもうけていた妃のマルガレーテとの離婚を考えていたが、ハインリヒの計画はマルガレーテの実家であるオーストリア公国との婚姻関係の構築を志向するフリードリヒ2世の意向に反するものだった[10]。アネシュカが修道女となったことでこの問題の決着はついたが、父子の間にはわだかまりが残った[10]リエージュの市民と司教の間に諍いが起きた時、ハインリヒは市民の側に立ったため、ドイツ諸侯の反発を招いた[11]1231年に諸侯の主導で開催されたヴォルムスの集会で、ハインリヒは「諸侯の利益のための定め」を発布した。「諸侯の利益のための定め」によって既にフリードリヒ2世が聖界諸侯に与えていた特権の多くが世俗諸侯に拡大され、ドイツ王権は制限される[12]

フリードリヒ2世はハインリヒとの話し合いが必要だと考え、ハインリヒに1231年11月のラヴェンナでの帝国会議への出席を求めるが、会議の場にハインリヒは姿を現さなかった[13]。周囲に促されたハインリヒは1232年アクイレイアの帝国会議に出席し、10数年ぶりにフリードリヒ2世と対面するが、父子の立場からは叱責を、皇帝と王の立場からは多くの要求を受けた[14]。数週間後に帝国会議の場はチヴィダーレに移され、会議の場でハインリヒはドイツ諸侯と教皇への従属を約束させられた[15]

教皇庁の働きかけに応じ、1234年にハインリヒはロンバルディア同盟と結託して反乱を起こした[16][17]。1234年9月にフリードリヒ2世がドイツに向かったことを知ったハインリヒは、反対派の人間を集めてアルプスの峠の封鎖を試みた[18]。しかし、ハインリヒの味方はミニステリアーレス(家士)のみで、ハインリヒを支持する諸侯は皆無であり、同盟者であるロンバルディア同盟の軍隊も防衛戦を得意としていても侵略戦には不慣れだった [19]。フリードリヒ2世は軍隊を伴わずドイツに入り、財貨を投じて反乱を解決した[20]。1235年7月2日にハインリヒはヴィンプフェンの王宮に出頭し、フリードリヒに降伏する[2]。7月4日のヴォルムスの帝国会議で、ハインリヒは王位と全財産を没収された[2]。ハインリヒが廃位された後、弟のコンラートが新たなドイツ王に即位する。

ハインリヒはハイデルベルクに拘禁された後、父によって目を潰され[19][21]アプーリアに移送された[22]。ハインリヒはメルフィ近郊のロッカ・サン・フェリーチェの獄中で6年間過ごし、ニカストロイタリア語版に移されることになるが[22]、護送の途上で乗馬と共に断崖から落ちて絶命した[19][22][21]。ハインリヒの死は事故ではなく、彼の意思による自殺だと考えられている[1][19][22][21]。ニカストロへの移送の前、フリードリヒ2世はハインリヒの赦免を決定していたとも伝えられ[22]、父としてはその非業の死を悼んだという[23]

人物

曖昧で移り気、無計画な性格の持ち主で、こうした性格による政策がドイツ諸侯との対立を招いたと言われている[11]。ハインリヒはフリードリヒ2世が持っていた詩歌に対する感性を受け継いでいると言われ、喪失した王位の紋章を奪われるときも歌うことを止めず、「朝に歌い夕に泣いた」と伝えられている[24]

アプーリアの城に移送されるとき、前述のようにハインリヒの目は潰されていたと伝えられている[19][21]。ハインリヒの遺体には金銀が織り込まれ、鷲の翼の模様の衣服を着せられてコゼンツァの教会の石棺に埋葬された[22]。1998年にピサ大学カラブリア大学の研究チームによってコゼンツァのハインリヒの遺骨の調査が実施され、ハンセン病の患者に共通する特徴が確認された[1]。ハインリヒは死の数年前にハンセン病に罹り、死の直前のハインリヒの容姿は強制的な隔離を要するほどに悪化していたと推定されている[1]

家族

1225年11月25日、ニュルンベルクでバーベンベルク家オーストリア公レオポルト6世の娘マルガレーテと結婚したが、二子はいずれも早世した。

  • ハインリヒ8世(? - 1254年?)
  • フリードリヒ4世(? - 1251年?)

ハインリヒ7世の死後、マルガレーテはオタカル2世と再婚した。

脚注

  1. ^ a b c d THE LEPROSY OF HENRY VII (1211-1242), SON OF FREDERICK II AND KING OF GERMANY(2015年12月閲覧)
  2. ^ a b c 西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、276頁
  3. ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、70-74頁
  4. ^ a b カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、120頁
  5. ^ 西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、263頁
  6. ^ a b 西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、271頁
  7. ^ 菊池『神聖ローマ帝国』、116-117頁
  8. ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、405頁
  9. ^ 藤沢『物語 イタリアの歴史』、102-103頁
  10. ^ a b カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、407頁
  11. ^ a b カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、406頁
  12. ^ 西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、272頁
  13. ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、405,407頁
  14. ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、410頁
  15. ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、410-411頁
  16. ^ 藤沢『物語 イタリアの歴史』、103-104頁
  17. ^ 菊池『神聖ローマ帝国』、117-118頁
  18. ^ 西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、275-276頁
  19. ^ a b c d e 菊池『神聖ローマ帝国』、118頁
  20. ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、436-437頁
  21. ^ a b c d 藤沢『物語 イタリアの歴史』、104頁
  22. ^ a b c d e f カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、438頁
  23. ^ 菊池『神聖ローマ帝国』、118-119頁
  24. ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、359頁

参考文献

  • 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)
  • 西川洋一「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
  • 藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』(中公新書, 中央公論社, 1991年10月)
  • エルンスト・カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』(小林公訳, 中央公論新社, 2011年9月)
先代
フリードリヒ2世
ドイツ王(ローマ王)
1220年 - 1235年
次代
コンラート4世
先代
フリードリヒ2世
シュヴァーベン公
1217年 - 1235年
次代
コンラート3世