ノート:自虐史観

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2004年12月11日以降の議論[編集]

とりあえず「現在日本国民の大勢が批判している」という記述が事実だという論拠を示していただけますか? --218.229.166.179 2004年12月11日 (土) 09:08 (UTC)[返信]

各種アンケート結果や選挙結果から読み取れますのでいろいろと調べて確認されればと思いますよ。 ただそれ以前に、あなたの質問の裏を返せば、あなたの主張はこのように日本人を愚弄するような主張になってしまいます。

「自国(日本の)歴史の負の部分を強調し、正の部分を過小評価する歴史観(自虐史観)は現在日本国民の大勢が賛成している。」

日教組や共産・社民系市民団体だけが日本国民ではありませんし、日本語を操ることのできる在日外国人も もちろん日本国民ではありませんよ。日本国民の大勢はそのような自虐史観に賛同するような愚かな国民 ではありません。--Peace 2004年12月11日 (土) 12:20 (UTC)[返信]

ご返答どうも。その「各種アンケート結果」は寡聞にして知りませんので、例示していただけると有難いです。ところで「選挙結果」から歴史観の支持の有無が判断ができると主張するのでしょうか?--218.229.166.179 2004年12月11日 (土) 14:28 (UTC)[返信]

自分の意見以外を認めない粘着質の人のようですな>Peace --218.229.166.62 2004年12月20日 (月) 12:15 (UTC)[返信]


まともな意見もろくすっぽ無いにも拘らず反日に拘り続ける218.229.166.179こそ日本人離れした粘着体質 だと思いますよ。(笑)--Peace 2004年12月20日 (月) 12:48 (UTC)[返信]


 誰も突っ込まないみたいなので書きます。
 「自虐」というのは、自分自身を苛めるという意味なので、自分自身を(または自国を)苛める明確な意図が無ければ「自虐」とは言えませんね。
 そして、あくまで自ら苛めるのが「自虐」なのですから、本人がはっきり「自虐では無い(自分自身を苛める行為では無い)」という意志のもとに行う行為ならば、たとえ他人にどう見えようと「自虐」たりえませんね。これは言葉の定義上自明です。
 もちろん、それが正しい行為か誤った行為かは、自虐かどうかとは全く別次元の問題ではあるのですが。
 その上で、「現在日本国民の大勢が自虐を目的とした史観を持たない」のは恐らく正しいのでしょう。証拠による裏付けまでは(現時点では)ありませんが。
 しかし、それで「ある種の人々が『自虐史観』なるレッテルを貼っている史観」が国民の大多数に否定されている事にはなりません。
 すなわち、「ある種の人々が『自虐史観』なるレッテルを貼っている史観が国民の大多数に否定されている」事を示したいのならば、「現在日本国民の大勢が自虐を目的とした史観を持たない」ことだけでなく、「ある種の人々が『自虐史観』なるレッテルを貼っている史観」がすべて「実際に自虐そのものを目的とした史観」であることを証明しなければなりません。
 実際にはこの二者の間には大きな乖離があるのではないかというのが私の実感です。

定義について[編集]

現在の定義文は、文章としておかしな部分が多いと思われます。第一に、「第二次世界大戦」という時期の区切りは意味がありません。第二に、定義文の前文と後文で、2つの意味となってしまっています。第三に、この表現が侮蔑的な表現であることは、定義として明示する必要があります。以上3点の問題点を解決するために、以下の文章に修正することを提案します。

自虐史観(じぎゃくしかん)とは、「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観である」として、一部の歴史観に対し、侮蔑的な評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。

--Tobey 2005年1月9日 (日) 07:02 (UTC)[返信]

「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」は侮蔑的評価受けても仕方が無いと反日サヨクは認めているが、その歴史観が己の自国への歴史観だとは未だに思っていないと言うことですね。単に自覚が不足しているだけのことですね。--World 2005年1月10日 (月) 18:39 (UTC)[返信]

意味が把握しかねますが、とりあえず、この修正に対し反論がないことを確認します。--Tobey 2005年1月11日 (火) 01:59 (UTC)[返信]

意味を把握できないと言うことは、確かに反日サヨクは自覚が不足していると言うことになりますな。 (笑)--Peace 2005年1月11日 (火) 12:29 (UTC)[返信]

1,2,3ともすべてTobey氏の思いだけからなされた提案のようです。 なぜそう思うのかの説明が無く、誰にもわからないと思われます。--Peace 2005年1月12日 (水) 19:08 (UTC)[返信]

第1点、「自虐史観」なのですから、その基準が自虐的なのか否かが問題となるわけで、時間的な区切りは関係ありません。
第2点、「歴史観」であるのか、「呼称」であるのか、ハッキリしません。2つの意味を持った文章となっているからです。そもそも「自虐史観」という歴史観を認めない人もいるわけですから、「歴史観である」と定義するのでは、中立的観点から外れます(自虐史観を認めない価値観を排除することになります)。
第3点、「自虐」という意味は、「自分で自分をいじめ苦しめること」を意味します。他者の見解を「自分で自分をいじめ苦しめている見解」と表現するのですから、「自傷」と同じく病的な意味を持たせた表現ということになります。このことを端的に示すのは、藤岡信勝『「自虐史観」の病理 』です。自虐史観は病気的であるという認識を明白に示しています。「自虐史観」と表現する場合は、対象者を病的な歴史観であるとして、見下し蔑む意味を含ませているわけです。もちろん、本文中にも『「いわゆる歴史的汚点を殊更強調し日本を貶める反日サヨクの歴史史観」というレッテル』だと説明していますので、侮蔑的であることは明らかですね。--Tobey 2005年1月12日 (水) 20:05 (UTC)[返信]

なお、現在の定義分は、以上の指摘以外にも、日本語としてもおかしな文章だと思われます。また、付け足された第3文ですが、「偏った歴史観を有する人々」という部分は、明白に中立的観点から外れています。侮蔑的であることは上記のとおりです。問題だらけの記述ですので、第3文は必要ないと思われます。--Tobey 2005年1月12日 (水) 20:12 (UTC)[返信]

第1点、「「自虐史観」なのですから、その基準が自虐的なのか否かが問題となるわけで、時間的な区切りは関係ありません。」これ何が言いたいのかよくわかりませんな。

第2点、そのような「歴史観」でり、その「呼称」でもあるですな。認めないも何も文意からして「自虐史観」でピッタリですから認めない人がおかしいわけですな。

第3点、ここで言う「自虐」は「日本人が日本国を執拗にイジメル」と言う意味合いで、わたしの主観ですが、確かにこの歴史観を持つ方は病的ですな。ただ、藤岡信勝『「自虐史観」の病理 』を認めない方もおられるそうですので「病的」「病的でない」と言うのはその人それぞれです。「日本人が日本国をイジメル」Tobey氏自身はどう思われますかな? 従って藤岡信勝氏が「自虐史観」と言う言葉にどのような意味と考えていようと、誰もが氏と同様の 意味に取るわけではありません。「自虐史観」は単に「日本人が日本国を執拗にイジメル歴史観」を素直に表す言葉であり、「日本人が日本国を執拗にイジメル歴史観」を病的と見るか否かは人それぞれだと言う事ですな。恐らくTobey氏は病的とは思っていないでしょうから「自虐史観は侮辱的な呼称だ」などと断定編集する事は藤岡氏の自虐史観は病気的であるという認識のみを採用する事で中立性に反している事になりますし、自身の思いとも矛盾した支離滅裂な編集を行っている事になりますな。 それとも実は「日本人が日本国を執拗にイジメル」のは病的だと内心思っておられるのでしょうか? まあ、本文でも「自虐史観」に対応する「歴史修正主義」と共に互いの「批判的呼称」とされている事で十分でしょうな。--61.205.94.156 2005年1月12日 (水) 22:13 (UTC)[返信]

では第1点目から確認していきましょう。「自虐史観」であると呼称する基準とは何でしょうか?(1)その基準、(2)なぜその基準である必要があるのか、の2点をご説明ください。--Tobey 2005年1月13日 (木) 04:02 (UTC)[返信]

第1点目に関しては回答がないようですので、第2点目に移ります。すでに指摘しているように、「歴史観」の存在を否定している見解が存在することが明らかな以上、「歴史観」と決め付けることは出来ません。これは、Wikipedia:中立的な観点に違反します。「歴史観」と書くことは出来ませんので、「呼称である」のみを持ちいらざるを得ません。ご反論が無ければ次に移ります。--Tobey 2005年1月15日 (土) 03:57 (UTC)[返信]

第2点目にも反論がないようですので、第3点目に移ります。ここでの61.205.94.156氏(K-OPTICOMユーザーですので、World氏もしくはPeace氏かと思われますが)の記述は、私の主張を勘違いなさっているようです。
私は、藤岡信勝氏が自虐史観に病的な意味を持たせている、と書いているのではありません。私の見解は、「自虐」とは「自分で自分をいじめ苦しめること」という意味であり、これは「自傷行為」と同じような意味合いを持っており、その意味において病的なニュアンスが含んでいるということを指摘しています。そういうニュアンスの言葉をもって、ある歴史観を表現するということは、「病的な歴史観である」という侮蔑的な意味を含めていることになるわけです。このことを端的に裏付けているのが、藤岡信勝『自虐史観の病理』だということです。
つまり、今回のWorld氏もしくはPeace氏の指摘は、「藤岡信勝氏が個人的な見解は必ずしも普遍的ではないので、普遍的に侮蔑的意味を含むものではない」というものでしたが、私の指摘は、そのような藤岡氏の見解を普遍化したものではなく、「自虐」の一般的な意味から「病的である」というニュアンスがあることを説明し、藤岡氏の見解から、そのことを裏付けているわけです。ご自身で「わたしの主観ですが…病的ですな」と述べていることも、私の見解を裏付けていることになります。
もちろん、これ以外にも、当の本文中に『「いわゆる歴史的汚点を殊更強調し日本を貶める反日サヨクの歴史史観」というレッテル』という説明をしているわけですから、侮蔑的な意味を持っているということは明白です。
反論がないようでしたら、合意していただいたと判断させていただきます。--Tobey 2005年1月16日 (日) 02:12 (UTC)[返信]

またオマエラの論争かよ・・・行く先々で喧嘩しないでくれ、お願いだから。思想戦争軍事に関連する記事ならところかまわず喧嘩してる光景みるといいかげん殺意が沸いてきそうだ(泣--ぶらっくさん 2005年1月18日 (火) 05:43 (UTC)[返信]

異論が無いようですので、本文を修正しました。--Tobey 2005年1月19日 (水) 01:51 (UTC)[返信]


私の以下の意見に反論が無いようですので、 「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」は確かに「自虐史観」である事。その「自虐史観」が第二次世界大戦後に現れた史観であること。「自虐史観」と言う呼称が侮辱的だとするTobey氏のご意見も反映されておりますのでそのように本文を修正させて頂きます。

第1点、「「自虐史観」なのですから、その基準が自虐的なのか否かが問題となるわけで、時間的な区切りは関係ありません。」これ何が言いたいのかよくわかりませんな。

第2点、そのような「歴史観」でり、その「呼称」でもあるですな。認めないも何も文意からして「自虐史観」でピッタリですから認めない人がおかしいわけですな。

第3点、ここで言う「自虐」は「日本人が日本国を執拗にイジメル」と言う意味合いで、わたしの主観ですが、確かにこの歴史観を持つ方は病的ですな。ただ、藤岡信勝『「自虐史観」の病理 』を認めない方もおられるそうですので「病的」「病的でない」と言うのはその人それぞれです。「日本人が日本国をイジメル」Tobey氏自身はどう思われますかな? 従って藤岡信勝氏が「自虐史観」と言う言葉にどのような意味と考えていようと、誰もが氏と同様の 意味に取るわけではありません。「自虐史観」は単に「日本人が日本国を執拗にイジメル歴史観」を素直に表す言葉であり、「日本人が日本国を執拗にイジメル歴史観」を病的と見るか否かは人それぞれだと言う事ですな。恐らくTobey氏は病的とは思っていないでしょうから「自虐史観は侮辱的な呼称だ」などと断定編集する事は藤岡氏の自虐史観は病気的であるという認識のみを採用する事で中立性に反している事になりますし、自身の思いとも矛盾した支離滅裂な編集を行っている事になりますな。 それとも実は「日本人が日本国を執拗にイジメル」のは病的だと内心思っておられるのでしょうか? まあ、本文でも「自虐史観」に対応する「歴史修正主義」と共に互いの「批判的呼称」とされている事で十分でしょうな。--Peace 2005年1月20日 (木) 17:02 (UTC)[返信]

いいかげんにしろ!馬鹿野郎どもが!どんどん編集保護項目を増やすな!--ぶらっくさん 2005年1月21日 (金) 10:23 (UTC)[返信]

“誰でも編集出来る”のですから、主張に争いのある項目でそれが増えるのは仕方のない事です。防ぎたいなら「論争ある」項目はなくし、又、作ってはならない事にしなければ。--211.13.148.36 2005年8月9日 (火) 04:18 (UTC)[返信]

↑すごい亀レス・・・ --忠太 2005年8月9日 (火) 12:58 (UTC)茶化しているとしか思えない行為なので消させて頂きました。ここは2ちゃんねるではありません。--211.13.148.134 2006年1月11日 (水) 07:10 (UTC)[返信]

本文最終段落「時代の成り行き~確立されるものであろう」の必要性[編集]

この部分に関しては、コメントアウトとして「以下ある人はエッセイでは?と言う」と書かれているように、ただの個人的な意見を述べているだけに過ぎないと思われます。

  • 「…二度と繰り返させてはならない事は言うまでもない」
  • 「…歴史の真実を見極め反省しなければなるまい」
  • 「…歴史を繰り返させる結果となる」
  • 「…あきらめる事はしないであろう」
  • 「…確立されるものであろう」

いずれも、個人的な見解を述べていることが解ります。
Wikipedia:中立的な観点には「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」というルールがあります。個人的な意見を書くことは、このルールに抵触しますので、当面、コメントアウトにすべきかと思います。--Tobey 2005年1月11日 (火) 15:00 (UTC)[返信]


このような普遍的に賛同できるコメントを個人的な意見として排除しようとするTobeyの意図が 不明ですな。このコメントに対して削除せねばならない程の異論でもあるのですかな?--Peace 2005年1月12日 (水) 18:59 (UTC)[返信]

「2005年1月11日 (火) 15:00 (UTC)」の記述で指摘しているように、Peace氏が個人的に「普遍的に賛同できる」と思うかどうかは関係なく、「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」ということです。つまり、削除する理由は、問題の文章が意見の発表となっているので、Wikipediaのルールに反するということです。
Peace氏もしくはWorld氏にお聞きしますが、件の「普遍的に賛同できるコメント」とは、誰のコメントですか?発言者の具体的な名前と、典拠を提示してください。提示できない場合は、個人的な意見であると見なさざるを得ません。--Tobey 2005年1月12日 (水) 19:10 (UTC)[返信]

Tobey氏が「南京大虐殺論争」で自身の願望とコジツケに基づいて「学会の反応」などとして堂々と本文保護されている「意見」は諸氏からその内容を全面否定されていますが、ここであなたがコメントアウトすべきとしている「意見」は誰も否定していませんし、むしろ歴史を学び現在に生かす為の素晴らしいコメントだと思いますよ。ダブルスタンダード丸出しで都合のいい時だけ杓子定規にルールを持ち出すのではなくもう少し公平で、柔軟な思考で編集に携わって頂きたいものですな。Tobey氏はそのコメント内容のどこが気に入らないのかをお答え下さい。--Peace 2005年1月12日 (水) 20:39 (UTC)[返信]

(1)他の記事のお話でしたら、そちらにて議論を行うようにお願いします。
(2)「ここであなたがコメントアウトすべきとしている「意見」は誰も否定していませんし」と書かれているように、Peace氏自身も意見であることを認めていることを確認します。
(3)「意見」に対する評価如何に関わらず、「だが意見は書くな」ということがルールとなっていますので、「意見」を書いている以上、中立的観点に反することになります。
(4)再度、質問を提示しておきます。ご回答がない場合は、「個人的な見解」であるということになりますので、Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなに反する記述ということで、削除するという結論といたしましょう。

Peace氏もしくはWorld氏にお聞きしますが、件の「普遍的に賛同できるコメント」とは、誰のコメントですか?発言者の具体的な名前と、典拠を提示してください。提示できない場合は、個人的な意見であると見なさざるを得ません。--Tobey 2005年1月13日 (木) 04:12 (UTC)[返信]

Tobey氏はそのコメント内容のどこが気に入らないのかをお答えできない事を確認させていただきました。 それと(1)(2)(3)からあなたの矛盾の指摘もひっくるめてもっとも重要な質問に答えて頂きましょう。

Tobey氏は以下のルールはウィキペディアの一部、自身の都合のいい項目だけで遵守すればよく、自身の 意見を記述している項目についてはその必要はない。と言うご都合主義的なお考えのようですが改める気は御座いませんかな? Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな--Peace 2005年1月14日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

私の個人的な不満があるわけではなく、「2005年1月13日 (木) 04:12 (UTC)」の(2)~(4)に書いているように、Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなというルールに反しているということです。ルールに反するという問題は、私個人に対する批判とは別問題です。とりあえず、ルールに反しているという指摘に対して反論はないということで構わないでしょうか?--Tobey 2005年1月15日 (土) 03:50 (UTC)[返信]

特に異論がないようですので、本文を修正しました。--Tobey 2005年1月18日 (火) 15:33 (UTC)

Tobey氏はPeace 2005年1月12日 (水) 20:39 に有効な反論を行なっていません。 Wikiにおけるあなた自身の統一した姿勢がなく、ダブルスタンダードであると言う指摘です。 つまり、編集者としての資格に欠けていると言う抗議の意味も含んでおりますので削除編集するのでなくまず誠意あるご回答を心がけて頂きたいものですな。--Peace 2005年1月18日 (火) 16:33 (UTC)[返信]

指摘されている問題点については、次のように回答させていただいています。「ルールに反するという問題は、私個人に対する批判とは別問題です」。編集者としての資格に関しては、しかるべき手続きに従って問うべきであり、本文記述がルールに反するという事実に変りはありません。
問題の記述がWikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなに反していないのであれば、問題となっている記述の発言者と典拠を提示してください。出来ないのであれば、個人的な見解となり削除は止む得ないでしょう。--Tobey 2005年1月18日 (火) 16:48 (UTC)[返信]

Tobey氏はその文章内容について否定していませんな。誰からも否定されない内容はもはや個人的意見でなく誰もが賛同、納得できる「説」「主張」であると認められていると言うことです。あなたがその内容に対立あるいは否定する見解があるならば削除するのでなく堂々とここでその内容について議論すべきですな。非建設的イチャモンばかり唱えているのでなく、実のある議論をされては如何ですかな?--Peace 2005年1月18日 (火) 17:31 (UTC)[返信]

再度、ルールをご確認くださいWikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな
『誰もが賛同、納得できる「説」「主張」』であるならば、件の文章は「説」であり「主張」であるということを、Peace氏も認めていることになります。件の文章が「説」や「主張」という「意見」である以上、「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」というルールに反することになります。

なお、簡単に件の文章に反論してみましょう。これは私個人の意見ではなく、「誰もが納得できる意見である」という主張に対する反論です。

時代の成り行きであったとは言え、日本にとってはもちろんの事、世界の国々にとっても第二次世界大戦は人類史上もっとも反省すべき大惨事であり、二度と繰り返させてはならない事は言うまでもない。
時代の成り行きではなく、原因は明確である。よって、反省すべきは、原因を作った国である。同じ様に侵略れたならば、また、同じ様に戦争を行うことを躊躇わないであろう。
そのためにも当時の帝国主義国、それらの国に侵略された国も双方が歴史の真実を見極め反省しなければなるまい。
歴史の真実を見極めて反省すべきは、原因を作った国、帝国主義国である。
一方的に偏った史観は歴史を繰り返させる結果となる。
侵略者を許さない枠組みを作り上げることが、歴史を繰り返さない処方箋であり、歴史観は関係ない。
民族間の主従的関係を生む自虐史観は抑圧された民族を生ぜしめ、当時と同様に彼らは決してあきらめる事はしないであろう。
「自虐史観」など存在しない。よって、「自虐史観」が、「民族間の主従的関係を生む」こともなく、「抑圧された民族を生ぜしめ」ることもない。「あきらめるか」どうかは、時と場合によるであろう。
真実をぶつけ合う事で互いが自省し、互いが信頼理解できる関係が確立されるものであろう。
「真実」が何かさえ理解しあえない。真実をぶつけあうことが、関係をこじらせる原因ともなる。

以上の様な反論も予想される以上、「誰もが納得できる」というPeace氏の主張は成り立ちません。--Tobey 2005年1月18日 (火) 18:11 (UTC)[返信]

件の文章が「説」や「主張」という「意見」である以上、「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」というルールに反することになります。
にも拘らずなぜTobey氏は「南京大虐殺論争」で諸氏から否定されている自身の意見を訂正しないのですかな?Wikiにおけるあなた自身の統一した姿勢がなく、ダブルスタンダードであると言う指摘です。まずこれが一点。
Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなの「意見」は「個人的意見」と解釈しております。

Tobey氏はあの主張を「個人的意見」と見なされるという事ですかな?私だけでなく多数の方も賛同される建設的主張だと考えますな。現にあなたも自身の意見として反論できず、予想するだけに留まっておられますな。従って「個人的意見」ではなくルールに反しないと言うのが私の見解です。これで2点。 あとあなたの予想した反論を自身の意見として為されるならば、それに対する反論をさせて頂いてもよろしいですがどうされますかな?以上3点へのお答えを気長にお待ちしております。--Peace 2005年1月18日 (火) 19:30 (UTC)[返信]

第1点目:私の個人的な資質は、件の文章がルールに反するということと関係ありませんので、しかるべき所で疑義を提示してください。論点を逸らすということは、議論の妨害にあたります。
第2点目:勘違いなさっているようですが、「個人的な意見」というのは、Wikipedia参加者の意見であるといことです。典拠がない以上、「だが意見は書くな」に従わざるを得ません。
第3点目:では、当面、私の見解とさせていただきましょう。
■なお、再度確認をとっておきますが、件の文章に典拠なく書かれたものであるわけですね?
お答えください。--Tobey 2005年1月19日 (水) 01:48 (UTC)[返信]

第1点目:個人的な資質でダブルスタンダードの方がルールを適正に適用できませんな。従ってTobey氏の 編集者としての資質の欠落イコールルール適用の資格無しと言うことで大いに関係がありますな。 あなたがルールの適用を為す場合、当面の論点はあなたの資質と言うことにもなりますな。 第2点目:意味不明瞭です。多数のWikipedia参加者の意見も「個人的な意見」と言うことで、それ以外の典拠の場合は一個人の意見でも「個人的意見」にはならないと言っているのですかな?的確にお答え頂きたいものですな。 第3点目:ではあなたの見解を文章としておまとめ下さい。 件の文章は典拠を丸写しにしたものではありません。ただ正論ですから似た文章はあるでしょうな。--Peace 2005年1月20日 (木) 14:40 (UTC)[返信]

第1点目:個人的資質がないのであれば、投稿ブロック依頼によって、管理人諸氏の適正な判断を得るべきでしょう。現在、投稿ブロック依頼が受理されていない以上、私の資質に問題がないという保証がなされていると考えられます。なおここで論じるべきは編集された内容ですので、私の個人的な資質については、利用者:会話ページにて議論を行ってください。記事の内容と関係ない議論は、論点逸らしであり、投稿ブロックの対象となりえますので、ご注意ください。
第2点目:多数の参加者の意見であっても、それは「個人的な意見」です。ちゃんとルールは読まれていますか?提示しておきましょう。

Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含め:た事実を書け――だが意見は書くな
ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。つまり、「神は存在する」と意見を書く代わりに、「アメリカ人のほとんどが神が存在すると信じている」という事実や、「トマス・アキナスは神が存在すると信じた」という事実を書けばいいわけです。

第3点目:2005年1月18日 (火) 18:11 (UTC) での反論は、レッキとした文章ですが?件の文章が典拠を丸写しにしたのではないということですが、ならば、あの文章はPeace氏の個人的な見解ということになりますが、それで構いませんね?何にしても、見解の表明がなされた以上、「誰もが納得できる」という事実が否定されたわけです。よって、意見の表明となり、Wikipediaのルールに反するという結論に達します。--Tobey 2005年1月20日 (木) 15:42 (UTC)[返信]

第1点目:Tobey氏はPeace 2005年1月12日 (水) 20:39 で指摘した「Tobey氏 はご都合主義のダブルスタンダードである。」に対し逃避されていますな。従って自らも「編集者としての資質が欠落している」事を黙認せざるを得ません。管理人諸氏が未だあなたの不当性を確認していない事で利用者諸氏のあなたに対する投稿ブロックの賛成票の妥当性は否定されませんな。該当項目参加者の反対票が1である事がそれを証明しています。 第2点目:「物事の存否」と「論説」をゴッチャに語るところが反日サヨクの杓子定規・味噌糞混同の 悪癖ですな。お話になりませんな。(呆れ 第3点目:私は一つの文章にまとめろと言っているんですなTobokey氏。典拠を丸写しでないものは「個人の意見」としてルール違反、論拠を丸写しにしたものはイチャモン著作権動議でこれまたルール違反。 あなたの目的がルールを悪用して気に食わない記述を抹殺することである証明ですな。ご自身の二枚舌で気が狂わないだけ大したもんですな。自身の南京大虐殺等での記述を全て自主的に削除される事ですな。(笑

(1)投稿ブロックに賛成票が入ることで、資質がないというのでしたら、既に投稿ブロックの処置が取られているでしょう。現実から考えて、私に資質が無いという見解は、Peace氏の個人的な見解でしかないようです。
(2)まさしくPeace氏は、「事実の存在」と「意見」の違いが理解できていないのでは?Wikipedia:中立的な観点にも書かれているように、「意見A」を述べたいのであれば、『どこそこに「意見A」が述べられている』という事実を提示しなければいけません。
(3)Wikipediaのルールとしては、個人の意見を載せるのもルール違反、転載もルール違反です。つまり、典拠の存在する意見を要約して載せる必要があるわけです。
■明確なお答えがいただけていないのですが、本文最終段落「時代の成り行き~確立されるものであろう」に関しては、典拠はなく、ご自身の意見だったということで構いませんね?--Tobey 2005年1月22日 (土) 05:05 (UTC)[返信]

Tobey氏は勘違いしないようにお願いします。その説はわたしが編集したものです。 自分で検索などされて調べればわかることですが一個人の意見ではなく将来にかけて支持されている ものですね。その意味で「典拠?」は無数にあると言ってもいいくらいで、実際記述を反対しているのはTobey氏だけですから是非勉強されて現在の正論とも言うべきものを会得してくださいね。 また南京大虐殺論争で全く典拠のない編集をされて諸氏から抗議を受けている記述についてはあなたの その指針に従えば当然自主的に訂正するのが筋というものですね。--World 2005年1月23日 (日) 08:04 (UTC)[返信]

World氏2005年1月12日 (水) 00:58の編集に関して[編集]

編集の意図がよく解りませんので、Revertとさせていただきました。編集は、ノートでコンセンサスを得るようにお願いします。とりあえず、「2005年1月11日 (火) 23:33」時点の本文のどの点が問題なのかを挙げるようにお願いします。--Tobey 2005年1月11日 (火) 16:14 (UTC)[返信]

とりあえず、World氏が、編集の意図を説明を拒否している点、つまり、対話を拒否していることを確認しておきます。--Tobey 2005年1月11日 (火) 16:32 (UTC)[返信]


Tobey 氏は一人相撲の悪癖を改善するように改めてお願いしておきます。 大東亜戦争肯定的評価の抹殺提案と同様に、削除の方向でなく加筆によるより詳しい編集を心がけてください。--World 2005年1月11日 (火) 19:19 (UTC)[返信]

ご自身で行った編集の説明をお願いします。--Tobey 2005年1月12日 (水) 00:59 (UTC)[返信]


論争が起きるような内容の項目は“百科事典”に不適切だと思います。定義以外の削除を提案します。--61.125.192.199 2005年1月15日 (土) 03:11 (UTC)[返信]

2段落目の修正について[編集]

現在の2段落目(「戦後民主主義教育によって」~「と自称することはない。」)は、以下のような問題点があります。

  1. 「戦後民主主義教育によって歪められた日本の歴史、の真実を見つめなおそうとする傾向」という記述ですが、その「傾向」を、「「戦後民主主義教育によって歪められた日本の歴史、の真実を見つめなおそうとする」と評価するかは、人の観点によって変わります。つまり、このようなある一方の観点を提示することは、中立的な観点に違反します。
  2. 「いわゆる歴史的汚点を殊更強調し日本を貶める反日サヨクの歴史史観」という部分は、定義文の言い回しを変えただけの重複記述です。不必要だと思われます。
  3. 「どちらも批判される側が」という記述ですが、「自虐史観」の定義には、それが批判であるという説明がなされていません。「批判される側」という記述は不適当だと思われます。また、この場で「歴史修正主義」の説明を行うことは不適当です。

以上3点の問題点を考慮し、かつ、現在の冗長な文章を整理する意味で、以下の記述に変更することを提案します。

この「自虐史観」という呼称は、「歴史修正主義」と同様にレッテルであり、自称することはない。

--Tobey 2005年1月16日 (日) 07:17 (UTC)[返信]

とりあえず、記述は、なるべく短くしない方がよいかと思います。初期は難解で事実がつかめない事項も、加筆による詳述や誤記の訂正(この記事に誤記があるのかまでは分かりませんが)等で、記述が良くなることもあるでしょうし。また、この記事項目に不適切な内容なら、異動先の記事を見つけることが手だと考えられます。--YuTanaka 2005年1月18日 (火) 16:37 (UTC)[返信]

Tobey氏は自身の気に入らない項目については全て削除や簡略整理しようとされる傾向がありますな。 問題部分の「」はそのような見方があると言う事実ですから、削除でなくもう一方の視点を記述されれば いいわけですな。その方が読者の利益にも適ったものと思われます。--Peace 2005年1月18日 (火) 16:45 (UTC)[返信]

私としても、なるべく多くの情報を提供すべきかと考えています。その結果、今回の提案文となりました。もし、私の提案文に問題があるのでしたら、具体的に修正してください。修正が無いようでしたら、当面、提案文を基に本文を編集しようと思います。--Tobey 2005年1月18日 (火) 16:57 (UTC)[返信]
(追記)もし、この文章に移動元の記事がある場合は、典拠の提示をお願いします。--Tobey 2005年1月19日 (水) 12:49 (UTC)[返信]

「自虐史観」「反日サヨク」「戦後民主主義教育」などご自身で検索されれば如何でしょうかな? 典拠典拠と唱えられますがこの文章は何人かの参加者によって加筆編集を経たものですからそのまんまの典拠などどこにも無いでしょうな。下の第三段落も同様ですが南京論争でTobey氏が典拠のない暴論を編集している場合とは違って、この場合典拠を求める意味無しでしょうな。--Peace 2005年1月20日 (木) 15:29 (UTC)[返信]

典拠がないことを確認しました。ということで、やはり、私の提案文が妥当なものと言えるでしょう。私の挙げた個々の問題点に対し異論がないようでしたら、提案文に沿って編集を行おうと思います。--Tobey 2005年1月20日 (木) 15:45 (UTC)[返信]

Tobeyさんへ。Peaceさんの合意が得られないまま編集すると、またリバート合戦になると思われるので性急な編集は止めたほうがいいと思います。Peaceさんの返答を待ってから編集するならされたほうが、リバート合戦が回避できるのではないかと思います。--矢刺幹人 2005年1月20日 (木) 16:40 (UTC)[返信]

議論経過を追っている方はTobey氏に対話の姿勢が無い事をお分かり頂けるでしょうな。 敢えてリバート合戦に持ち込んでいる性急な繰り返し編集です。(呆れ--Peace 2005年1月20日 (木) 19:31 (UTC)[返信]

しかし、これは一体…。”典拠”のある・ないぐらいは簡単にわかるでしょうに…。ここはどうなっているのでしょうか?--ちゃんこなべ 2005年1月24日 (月) 10:29 (UTC)[返信]

3段落目の修正について[編集]

この段落も、第2段落目同様に、中立的な観点に反する記述が多く、また、冗長な部分も多いと思います。とりあえず、この文章の典拠を求めます。典拠を提示できない場合は、この文章を個人的な見解と判断します。その上で、内容を検討してくことにしましょう。--Tobey 2005年1月19日 (水) 12:49 (UTC)[返信]

誰が保護以依頼されたのかは存じませんが、保護されてしまって残念でしたなTobokey氏。気に食わない記事の抹殺が全部できませんでしたな。(笑--Peace 2005年1月20日 (木) 19:31 (UTC)[返信]

本気でみっともないなアンタらは・・・・--ぶらっくさん 2005年1月27日 (木) 18:55 (UTC)[返信]

無関係の立場で煽っているアンタはもっとみっともないな。--61.205.94.232 2005年1月30日 (日) 07:15 (UTC)[返信]

いい加減に付きまとうのはやめなさい。じゃないとホストごとブロックくらうよ?投稿ブロック措置を受けたとたんにIPユーザーが現れたら自分は関係者って自白してるようなものじゃないか。--ぶらっくさん 2005年1月30日 (日) 07:57 (UTC)[返信]

まだ煽ってんのかアンタ?--以上の署名のないコメントは、218.42.223.31会話/Whois)さんが 2005年1月30日 (日) 10:06 (UTC) に投稿したものです。[返信]

だから(略--ぶらっくさん 2005年1月30日 (日) 10:11 (UTC) (追記)218.42.223.31のアドレスで、南京大虐殺論争のところにもかいてるなアンタ・・(汗[返信]

全体の構成に関して[編集]

もめがちな話題であるのはよく分かりますし、ここまでのご苦労も分からないではないですが、記事全体の見通しが悪い気がします。で、提案ですが、少し段を分けてはどうかと。

  • まず、自虐史観の議論は、私の理解では歴史観の問題ではなく、教育内容の慰問題としてあるのではないかと思います。そこに論点を絞った方がわかりやすい気がする。日本の戦争責任に関する議論は、第2次大戦後に一気に起こったものではなく、むしろここ20年ころから出てきたものと理解しています。それまでは、日本は敗戦国であって、負けたつらさや恨み辛みが正面に出ていたはず。日本が戦時中に行ったとされる中国での残虐行為であったり、従軍慰安婦問題が教科書に扱われるようになったのはずっと後になってのこと、自虐史観という言葉もそれより後に出てきたように思います。その辺の経緯をふまえる必要がないですか?
  • 賛否両方に配慮するため、文章表現がおかしくなっています。例えば従軍慰安婦はあったのかなかったのか、両方に配慮した文章などできっこないですから。それで、自虐史観批判側の見方と、支持する側(当然自虐史観とはいわないわけですが)の意見を、段を分けて書き、相手側を削除したりはしないようにするのがいいんではないかと思います。

以上2点、いかがでしょうか?--Ks 2005年4月19日 (火) 11:32 (UTC)[返信]

賛成します。ある程度、文章の量が多くなってるので段落の設置等は必要です。ただ、「自慰史観」もそうですが、「自虐史観」という言葉が具体的にいつ発生したかよく知らないので、詳しい方がおられれば助かります。221.191.140.184 2005年5月2日 (月) 13:25 (UTC)[返信]

こんなのではどうでしょう?ご意見よろしくお願いします。--Ks 2005年5月7日 (土) 07:59 (UTC)[返信]



自虐史観(じぎゃくしかん)とは、歴史教科書問題にかかわって、歴史の教科書に”日本軍による残虐行為”とされる事象についての記述を掲載することに対し、それを批判する立場から用いられる言葉である。

概要[編集]

自虐史観(じぎゃくしかん)とは、学校の歴史教科書において、日本軍が行なった”残虐行為”であるとされる一連の事象について記述をする立場に対して、これを「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観である」として、偏向した歴史観であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。⇔自由主義史観

この言葉は、戦後民主主義教育によって歪められた日本の歴史の真実を見つめなおそうとする傾向に対して批判的立場からのレッテルとして、「右翼軍国主義歴史修正主義」と呼ぶのに対応している。つまり、自称では「日本の戦争責任を見詰め、諸国との平等な友愛をはかる」立場を、」「歴史的汚点を殊更に強調し日本を貶める左翼反日主義者の歴史史観」であるとのレッテルを貼るために用いられている。どちらも批判される側が「歴史修正主義」「自虐史観」と自称することはない。


経過[編集]

第二次大戦後、日本の教育は大きく見直された。特に歴史においては、戦前のような軍国の英雄を扱う内容は全て削除され、民主主義教育と反戦教育が全面に出されることになった。ただし、この時代の反戦教育は、戦争の悲惨さを伝えることが全面に打ち出されたものである。たとえば空襲で親を失った話、戦争へ行って返って来なかった父や兄の話など、戦争を降り掛かった災害と見る立場に基づくものが多かった。

1980年代初頭の中国からの教科書批判(侵略⇔進出)が「起きたことでも分かるように、当時は日本の戦争加害者としての立場については、一般にも認識は広まっておらず、教科書においても特に取り上げられることは少なかった。それらが少しづつ取り上げられるようになったのは、1970年代末から80年代前半にかけてである。その中から、いわゆる731部隊のこと、南京大虐殺、従軍慰安婦問題といった内容を扱った出版物が注目を浴びることになった。

これが教科書の内容に波及し、1990年代には、これらに関する記述が、多くの歴史教科書に掲載されることになった。特に慰安婦問題については、当時の全ての教科書に掲載があったことが伝えられてている。

この様な流れに対して、この様な負の歴史を子供たちに教えるのはいかがなものかという意見と共に、これらの報告に関する疑問提示が様々な形で行なわれた。小林よしのりによる『ゴーマニズム宣言』もその動きの一般化に大きな力となった。そのような運動の中から、そのような流れに毒されない、あるべき歴史教科書を造るべきだとの動きが生じ、1996年から「新しい歴史教科書をつくる会」の運動が始まった。自虐史観という言葉は、この様な動きの中で使われるようになったようである。

「特に戦争中諸外国でも多数存在した従軍慰安婦についてあたかも日本だけに存在したかのような表記やそれが『強制』であったかのような表記が高等学校日本史教科書に掲載された」ことを問題視し、「自虐史観である」として批判する日本国民の中から自分たちで教科書を作る運動を起こった。その「新しい歴史教科書をつくる会」により、歴史・公民の教科書が作られ、2001年には文部科学省教科用図書検定に合格し、一部の学校で使用されている。彼らによれば「この時自虐史観は組織的な採択妨害を繰り返し、毎年採択時期になるとインターネット等でも反対派の妨害呼びかけや活動が活発になる」と主張している。実際に、一部勢力が採択委員の電話番号を記した文章を組織内に配布し、昼夜を問わない「抗議電話」や暗に家族へ危害を加える予告とも取れるような恫喝に近い行為を行ったという事件が存在しており、大規模な組織的反対運動が行われた。


『自虐史観』批判の内容[編集]

第二次世界大戦終了後、連合国軍最高司令官総司令部による統制の下で、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、日本の近代化の遅れや歪み、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。戦争への反省から、様々な観点から第二次世界大戦前の再評価が行われている。そこで自虐史観を非難する日本国民は、「その再評価は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となった。」と評価する。そのような教育を受けた結果「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」という意識を「いわゆる戦後民主主義教育によって誤った歴史観(自虐史観)が蔓延した事による」として、その「過ち」の評価をしている。

『自虐史観』批判の具体的な内容としては、以下のようなものが挙げられる。

  • まず、事実に誤認があること。南京大虐殺、従軍慰安婦問題と言った、よく取り上げられる問題については、その真実性が疑わしい。被害者数などの数字では、もっとも大きい数字は非現実的で、明らかに捏造である。中程度の数字についても、それの証拠は少なく、重要な資料と言われるものには、疑問や捏造の疑いのあるものが多い。したがって、それらのような事実は、全くの事実無根ではないかもしれないが、少なくとも世界で例を見ないような行為とは思えない。
  • これらの主張をしているのは、中国や韓国など、特定の国及び、その同調者のみであり、資料もそれらの国の主張するものをそのまま利用している。特定の政治勢力の意図の元での行動とみなすべきである。
  • 実際の資料に基づいて判断すれば、日本のこれまでの行為の中に、少なくとも様々な国が戦時中に行なった行為を越えるような逸脱は見られない。特に日本だけが批判されるような問題ではない。
  • 日本の戦争責任に関する問題は、すでに処理済みである。
  • 判断力が充分でない子供たちに、自国が過去に悪いことをした、というようなことを教えることは、自国に対して誇りを失わせ、愛国心を養うという点からも問題がある。

愛国心の観点から考えれば自虐史観を支持する国民は存在しないはずだが、自身の持つ歴史観が自虐史観と自覚していない国民も少なからず存在する。日本国憲法上、このような少数意見も尊重される。

自虐史観を非難する日本国民は、「一方的に偏った史観は歴史を繰り返させる結果となる。民族間の主従的関係を生む自虐史観は抑圧された民族を生ぜしめ、当時と同様に彼らは決してあきらめる事はしないであろう。真実をぶつけ合う事で互いが自省し、互いが信頼理解できる関係が確立されるものであろう。」と主張し、第二次世界大戦の様な大惨事を二度と繰り返させない為、当時の帝国主義国、それらの国に侵略された国も双方が歴史の『真実』を見極め、反省する事を求めている。

批判への反論[編集]

他方、自虐史観と非難されている側からも、当然ながら反論はある。

  • 批判側の言い方は、一部の証拠に疑問がある、だからこの問題はなかったことだ、とするような、1種の詭弁である。多くの証言があるのであって、そこには一定の信憑性もあるので、その全てを無視することはできない。
  • これらの数字は、完全な証拠はないかもしれないが、それらの国のみならず、その他の国でも認められているものであり、一方的な虚偽ではあり得ない。
  • また、そこに描き出される日本軍の行為については、同様の事象が、沖縄などの国内にも見られる。そういう点からも、一貫した問題点があることを伺わせるものであって、取り上げて論ずるに足る理由がある。

日本政府が何度も戦争責任に対するおわびをしているのは確かである。しかし、それに対する近隣諸国からの批判が収まらないのは、そのたびに国内で政治家による暴言・放言が飛び、いかにも本気でわびていないことが分かるからでもある。つまり、国外に向けては謝罪を行ないつつ、国内に向けては謝罪の必要がない旨のアピールを続ける、ということを行なって来たわけである。

愛国心から言えば、我が国が近隣諸国から受け入れられ、今後は融和関係でいられるようになってほしい、というのも、また一つの在り方である。

==関連項目==
* [[歴史修正主義]]
* [[自由主義史観]]
* [[自慰史観]]
* [[皇国史観]]
* [[皇民化教育]]
* [[戦後民主主義教育]]
* [[国旗及び国歌に関する法律]]
{{stub}}
[[Category:政治思想|しきやくしかん]]
[[zh:自虐史觀]]

こんな風でいかがでしょう?ご意見を伺い、もし、これで良いと言う意見がいくつかいただければ、本文をこれで置き換えたいと思いますので、よろしくお願いします。--Ks 2005年5月7日 (土) 15:09 (UTC)[返信]

表現・内容とも現在の本文の方がよりまとまっているようですから置き換え無いほうがいいと思います。--Yonsama 2005年5月8日 (日) 13:07 (UTC)[返信]

ぱっと見たところでは、「概要」の2段落目冒頭がPOVな表現ですし、「経過」は長過ぎると思います。このままでは「自由主義史観」の主張を脱していないですね。 -- NiKe 2005年5月9日 (月) 11:08 (UTC)[返信]

概要第2段落は原文通りです。あと、私は自由主義史観の人間ですので、そのあたりはやむをえないと。やりたかったことは、たとえば「従軍慰安婦」は事実かどうかとは別に、「従軍慰安婦が存在したという表明が行なわれ、教科書にのった」ことは事実で、これを書かないことにはそれに体する反対も意味をなさないだろう、ということ、それと立場を分けてその理由を説明する場をつくることです。そういうわけで、叩き台としてみて、それでどうでしょうか?--Ks 2005年5月17日 (火) 14:27 (UTC)[返信]

教科書採択などの記述[編集]

教科書採択を巡る騒動などの記述は分離してもらえませんか(コメントアウトしました)。ただでさえ議論の多い項目をいたずらに複雑化し、混乱させていると思います。 --忠太 2005年8月6日 (土) 13:38 (UTC)[返信]

削除希望[編集]

自虐史観の対抗概念である自慰史観が、削除対象になりかけており、自慰史観を削除検討するなら、自虐史観も削除の対象とするのが、中間的な立場だと思います。…そもそも自虐史観なるもの自由主義史観に屈服しない反対者に対する罵倒語として誕生した経緯がある。…ザッヘル・マゾッホのフィクションの世界を連想させるサイコロジカルな例外語である。そもそも日本語には無い。造語である。ただただ扇情的であり、歴史を学的に体系付けようとする者、研究者にとって、客観性を損ねる言葉である。死語にするのが相当であると考えます。将来をみすえる未来思考として…。--利用者:太宰由紀夫2006年3月3日 (金) 01:32 (UTC)(投稿時間付記)--経済準学士 2006年4月8日 (土) 12:47 (UTC)[返信]

あなたが執拗に記載したがる、「ネット右翼」もそもそも日本語には無く、罵倒語として誕生した扇情的な造語ではないですか?--経済準学士 2006年3月16日 (木) 17:11 (UTC)[返信]

ひとつ提案を。[編集]

議論が白熱しているようですが、要は

  • 藤岡信勝は『自虐史観』を『自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観』の名称として用いているが、厳密に言うと異なるのでは?

ということですね。

この名称に対し、別の言い方で表現する場合があります。小林よしのり

  • 自祖虐自純化史観
    活動家らが、過去の戦争、強いては自分の祖父の世代の人々を糾弾することが正義だと信じ、それに酔っていると見た命名。
  • 発狂史観
    歴史家たちが戦前の日本は無謀な戦争を合理的な理由もなく仕掛けたと主張している、と見る史観。

という言葉を使っております。

つまり、藤岡はこういう意味で『自虐史観』と呼んでいるが、別の言い方もある、という風に編集すればよいと思います(ほかに良い言い方をしている例があったら歓迎します)。

あと、議論は冷静にお願いします。 78 2006年5月4日 (木) 15:31 (UTC)[返信]

自虐史観の本質として[編集]

自虐史観を論じる者の大半が実際に体験していない 「第二次世界大戦前の」 歴史の負の部分をことさら強調し、 正の部分を過小評価する歴史観は自虐と呼ばれますが、 自虐史観を論じる者の大半が実際に育った 「第二次世界大戦後の」 歴史の負の部分をことさら強調し、 正の部分を過小評価する歴史観は自虐とは呼ばれません。

この非対称性こそ「自虐史観」という言葉の本質です。

実際には知らない戦前、戦中を「正当に評価」し、 自らが育った戦後の歴史観を自虐史観と呼び蔑む行為こそ最大の自虐です。--以上の署名のないコメントは、218.134.88.9会話/Whois)さんが 2006年9月19日 (火) 05:20 (UTC) に投稿したものです。[返信]

保護解除の提案[編集]

この記事は2006年3月1日より、長期荒らし、および匿名ユーザーとの編集合戦により無期限保護されていますが、保護期間が2年半と長期に渡っていることにより、様子見での保護解除を提案します。また長期荒らしが来たら来たで対処、普通に荒れたら荒れたで保護、ということで。

特に異論がなければ、タイミングを見て保護解除を依頼します。--Tatsujin28 2008年9月27日 (土) 14:56 (UTC)[返信]

海外の事例について[編集]

自虐史観の海外の事例として、ドイツとフランスの事例が挙げられていますが、これらはここで挙げられる例としてふさわしくないのではないでしょうか?というのは、この二つの事例は、「ナチスの侵略行為・虐殺行為およびそれに対する協力」や「アルジェリアに対する侵略・植民地支配」という、「負の歴史」を単に恥じているだけであって、これらを強調したり、何らかの「正の歴史」を過小評価するものではありません。したがって、本稿の定義文に当てはまっていないと思われるからです。

もし、適切な事例としてあげるなら、ナチスの「正の歴史」やアルジェリア侵略の「正の歴史」を挙げ、これが過小評価されていることを加筆する必要があると思います。

個人的には、ナチスの「正の歴史」(戦前の経済発展とかでしょうか?)やアルジェリア侵略のそれ(インフラや法制度等の整備?)が、これらの「負の歴史」に比べて過小評価されているとはとても思えませんし、そういうことを書いた文献も見たことがありません。

特に異論がなければ、同項目は削除させていただきたいと思いますので、ご意見をよろしくお願いいたします。 --抹茶アンパン 2010年9月29日 (水) 17:49 (UTC)[返信]

自虐史観とは、戦後日本の主流を占めていた史観が特に非常識であり、めったに存在するものではない、という藤岡信勝らの評価から生じた用語で、ドイツはさておき、フランスのような国に当てはめるべきではない。同項目の削除に賛成する。--Brackcandy 2010年12月5日 (日) 21:52 (UTC)[返信]