翟魏

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(てきぎ/たくぎ[1]、388年 - 392年)は、中国五胡十六国時代丁零人のにより、現在の河南省黄河南岸に建てられた政権である。

歴史

以下の記述は『魏書』、『晋書』、『資治通鑑』によるもの。[2]

建国以前

翟斌の一族は代々康居に住み、後に中国に移った[3]

330年、翟斌は後趙に入朝し、句町王に封ぜられる。

371年1月、前秦苻堅は関東の豪傑及び雑夷15万戸を関中に、烏桓族を馮翊郡北地郡に、丁零族の翟斌を新安郡澠池郡に移住させた。

383年12月、前秦の衛軍従事中郎であった翟斌は河南で挙兵し、前秦の豫州牧で平原公の苻暉洛陽で攻めた。長楽公の苻丕慕容垂苻飛龍にこれを討たせたが、慕容垂は南下して丁零と結び、苻飛龍を殺し、ことごとくその衆を生き埋めにした。慕容垂は密かに前燕の旧臣と燕国を復興させることを謀っており、丁零の翟斌と兵を起こして前秦に叛いたのである。慕容鳳及び燕の故臣の子である燕郡の王騰、遼西の段延らは翟斌の挙兵を聞き、各部曲を率いてこれに帰した。平原公の苻暉は武平武侯の毛当に翟斌を討たせた。丁零の衆は翟斌に随従し、秦兵を大敗させ、毛当を斬った。翟斌は遂に陵雲台戍に侵攻し、万余人の甲仗を収める。

384年1月、慕容鳳,王騰,段延らが慕容垂を盟主に奉じることを勧めたので、翟斌はこれに従った。慕容垂は大将軍,大都督,燕王と称して後燕を建国すると、弟の慕容徳を車騎大将軍・范陽王とし、兄子の慕容楷を征西大将軍・太原王とし、翟斌を建義大将軍・河南王とし、元扶餘王の餘蔚を征東将軍・扶餘王とし、昌黎鮮卑の衛駒を鷹揚将軍とし、慕容鳳を建策将軍とした。2月、慕容垂は丁零,烏桓の衆20余万を率いてを攻めたが、陥落できなかった。7月、翟斌は功を恃んで驕り高ぶり、鄴城を陥落できずにいる慕容垂に対して密かに弐心を抱いた。これに気付いた太子の慕容宝,范陽王の慕容徳,陳留王の慕容紹,驃騎大将軍の慕容農らは翟斌を排除することを慕容垂に請うたが、功績のある翟斌を排除することはできないと、申し出を却下した。ある日、翟斌は尚書令になることを請うたが、慕容垂に断られたため、密かに前秦の長楽公である苻丕と通謀し、丁零人たちに堤防を決壊させた。この事が発覚し、翟斌及びその弟翟檀,翟敏は慕容垂に殺された。翟斌の兄の子である翟真は夜に営衆を率いて北の邯鄲に奔走した。翟真は兵を引き連れて鄴に戻り、前秦苻丕と内外で呼応しようとした。しかし、後燕太子の慕容宝が冠軍大将軍の慕容隆とこれを撃破したので、翟真は邯鄲に逃げ帰った。8月、翟真が邯鄲から北走したので、慕容垂は太原王の慕容楷,驃騎大将軍の慕容農に騎馬を率いて追撃させた。両者は下邑で戦い、翟真が勝利した。10月、翟真は承営に在って、公孫希,宋敞遙と首尾となった。長楽公の苻丕は宦者冗従僕射の清河光祚を遣わし、将兵数百を中山に赴かせて翟真と結んだ。また、陽平太守邵興を遣わして数千騎を率い、冀州の故郡県に召集し、光祚と襄国で会した。この時、後燕軍は疲弊しており、前秦の勢いは復振していたので、趙郡人の趙粟らは柏郷で兵を起こして邵興に応じた。後燕王の慕容垂は冠軍大将軍の慕容隆,龍驤将軍の張崇に邵興を撃たせるべく、驃騎大将軍の慕容農と合流させた。慕容隆は邵興と襄国で戦い、これを大破した。邵興は広阿まで逃走したが、慕容農と遭遇して捕えられた。光祚はこれを聞き、鄴に逃げ帰った。慕容隆は趙粟らを撃破し、冀州の郡県は再び後燕に従った。独孤部劉庫仁は公孫希がすでに平規を破ったことを聞き、大挙兵して長楽公の苻丕を救おうと、雁門上谷代郡の兵を発し、繁畤に駐屯した。時に、劉庫仁の所にいた慕輿文,慕輿常の2人は三郡の兵が遠征に嫌気がさしていることを知り、造反して劉庫仁を夜襲して殺害し、その駿馬を盗んで後燕に奔走した。これを聞いた公孫希の衆は動揺して自潰したので、公孫希は翟真の所へ奔走した。11月、後燕の慕容農は信都の西から翟真の従兄である翟遼を魯口で撃ち、これを破った。翟遼は退いて無極に駐屯し、慕容農は蒿城に駐屯してこれに迫った。12月、後燕の慕容麟,慕容農は翟遼を襲って大破し、翟遼は単騎で翟真の所へ奔走した。

385年4月、翟真が承営から行唐に移ると、翟真の司馬である鮮于乞は翟真および諸翟人を殺し、自ら立って趙王となった。営人は共に鮮于乞を殺し、翟真の従弟である翟成を立てて主とした。しかし、その衆の多くは後燕に降り、翟遼は黎陽に奔走した。5月、燕王慕容垂は常山に至り、翟成を行唐で包囲した。7月、翟成の長史である鮮于得[4]は翟成を斬って慕容垂に降った。慕容垂は行唐を攻め落とし、翟成の衆をことごとく穴埋めにした。[5]

386年1月、黎陽に逃れた翟遼は黎陽太守滕恬之に甚だ寵愛されるが、滕恬之が士卒から信用されていないことを知ると、密かに謀りごとを企てた。そして滕恬之が南の鹿鳴城を攻めた際、後方にいた翟遼は閉門して滕恬之が帰って来れないようにし、東の鄄城に奔走しようとした滕恬之を追って捕え、黎陽を乗っ取った。これを知った豫州刺史朱序は将軍の秦膺,童斌を遣わし、淮,泗の諸郡と共にこれを討った。3月、泰山太守の張願は郡ごと叛いて翟遼に降った。8月、翟遼は譙で略奪をおこなったため、朱序によって撃退された。

387年1月、翟遼は子の翟釗に陳,穎を略奪させたが、朱序が派遣した秦膺によって撃退された。4月、高平の翟暢は太守の徐含遠を捕え、郡ごと翟遼に降った。5月、後燕の慕容垂は自ら諸将を率いて南の翟遼を攻め、太原王の慕容楷を前鋒都督とした。翟遼の衆は皆、燕,趙の出身であったため、慕容楷が攻めてくるのを聞くとこれに帰順した。懼れた翟遼は使者を送って降伏を請うた。慕容垂はこれを承諾し、翟遼を徐州,河南公に封じて帰還した。10月、翟遼は後燕に叛き、王祖,張申とともに清河郡平原郡を略奪した。

翟魏の建国

388年2月、翟遼は司馬の眭瓊を後燕に遣わして謝罪したが、慕容垂はこれを聞き入れず、眭瓊を斬って関係を絶った。そこで翟遼は自ら魏天王と称し、改元して建光とし、百官を置いた。5月、翟遼は滑台に移って駐屯した。

建光2年(389年)4月、翟遼は滎陽を略奪し、太守の張卓を捕えた。10月、後燕の楽浪悼王の慕容温が冀州刺史となったため、翟遼は丁零人の故堤に偽りの降伏をさせて慕容温の帳下に入れ、慕容温を殺害させた。

建光3年(390年)1月、豫州刺史の朱序は翟遼を撃ち破った。8月、劉牢之は翟釗を鄄城で撃ち、翟釗は河北に奔走した。劉牢之はさらに翟遼を滑台で破り、張願が来降してきた。

建光4年(391年)10月、翟遼が死去し、子の翟釗が代わって立ち、改元して定鼎とした。翟釗は後燕の鄴城を攻めたが、後燕の遼西王である慕容農によって撃退された。

定鼎2年(392年)2月、後燕の君主である慕容垂は魯口から河間,渤海,平原に及んだ。翟釗はその将翟都を遣わして館陶を侵し、蘇康塁に駐屯させた。3月、慕容垂は兵を率いて南の翟釗を撃った。4月、翟都は南の滑台に奔走、翟釗は滑台で慕容垂に討たれ、黎陽に退いた。6月、慕容垂が黎陽津に到達し、渡河しようとするのを、翟釗は南岸に列兵してこれを拒んだ。慕容垂は偽の兵をつかって翟釗の注意を引き、その隙に渡河を成功させた。これを聞いた翟釗は妻子と数百騎を連れて北の白鹿山に奔走した。慕容農はこれを追撃してその衆を捕えたが、翟釗のみは単騎で西燕の長子に奔走した。慕容垂は翟釗の統領していた七郡3万8千戸を以前のように処遇し、徐州の流人7千数戸を黎陽に遷した。翟釗は西燕の君主慕容永に救いを求めて西燕に降り、慕容永から車騎大将軍,東郡王に封ぜられる。

1年余りして、翟釗は慕容永を殺そうと謀ったため、慕容永によって誅殺された。

歴代君主

  1. (在位:388年 - 391年)…翟真の子か、従兄
  2. 翟釗(在位:391年 - 392年) …翟遼の子

使用した元号

脚注

  1. ^ の読みについては、『通志』氏族略に「翟氏、亦作狄、音、亦音。祁姓、黄帝之後、世居翟地。国語云、翟国為晋所滅、子孫以国為氏。」とあり、タク/テキの二通りがある。ここでは三崎良章『五胡十六国』(東方書店、2002年、ISBN 9784497202017)にしたがい、記事名をテキ魏とする。詳細は本記事のノートも参照。
  2. ^ 『魏書』(列伝第八十三)、『晋書』(載記第十三、載記第十四、載記第二十三)、『資治通鑑』(卷第九十四、卷第一百三、卷第一百五、卷第一百六、卷第一百七、卷第一百八)
  3. ^ 『資治通鑑』卷第九十四
  4. ^ 『資治通鑑』では「鮮於得」
  5. ^ 資治通鑑』卷第一百六

参考資料

関連項目