ゼキ・ヴェリディ・トガン
ゼキ・ヴェリディ・トガン(バシキール語:Әхмәтзәки Вәлиди、:トルコ語:Zeki Velidi Togan、ロシア語:Ахмад-Заки Ахметшахович Валидов、1890年12月10日 - 1970年7月28日)は、現在のバシコルトスタン出身の歴史家、トルコ学者、政治家。
経歴
ウファ県(現在のバシコルトスタン)のステルリタマク郡にて、地方のムッラーの家に生まれる。 1912年から1915年の間、カザンのカーシミーイェ・メドレセにてアラビア語、ペルシア語、チャガタイ語の諸学を修め、1912年には最初の著作『テュルクとタタールの歴史』を出版した。 ロシア科学アカデミーの依頼により、1913年にフェルガナ、1914年にブハラにて現地調査を行い、ブハラにて、テュルク語に翻訳された10世紀のコーランの写本を発見する成果を挙げた。
1915年から国会のムスリム代議員の支援業務に携わり、1917年には、ウファ県の代表として制憲議会の代議員に選出される。さらに、バシキール人の代表組織ミッレト・メジュリスの議員に選出され、バシキール人評議会(シューラー)を組織した。
ヴェリディらは、1918年にオレンブルクにて、バシコルトスタンの独立を宣言した。ヴェリディの率いるバシキール軍は白軍のアレクサンドル・ドゥトフの下で戦い、後にアレクサンドル・コルチャークの傘下でボリシェヴィキと戦った。
ソビエト政権が、バシキールの自治を認めると、ヴェリディは赤軍側に寝返り、1919年から、バシキール革命委員会(Башревком)の議長としてソビエト政権と共闘する。しかし、1920年にはヴェリディは、ソビエト政権側の対応に失望し、再度反ボリシェヴィキ陣営に付く。バシコルトスタンを離れたヴェリディは、中央アジアの反ソ運動「バスマチ運動」に参加し、1923年まで「トルキスタン民族同盟」の議長を務めた。
バスマチ運動の失敗により、ヴェリディは中央アジアを離れ、1923年には、亡命先のイランのマシュハドでイブン・ファドラーンの手稿を発見した。1925年にトルコ国籍を取得し、イスタンブル大学の教授として招聘される。1935年にはウィーン大学に博士論文『イブン・ファドラーンの北ブルガール、テュルク、ハザールへの旅行記』を提出し学位を取得した。その後ボン大学(1935年-1937年)やゲッティンゲン大学(1938年-1939年)に招かれ教鞭を取った。1939年にイスタンブル大学の歴史学部に戻り、1953年には同大学のイスラーム世界研究所の責任者となった。1967年にはマンチェスター大学から名誉博士号を授与された。トルコ民族史に関する著作は、11の言語で書かれた400を数える。