スィノプ
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スィノプ Sinop | |
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スィノプ市街 | |
位置 | |
スィノプとスィノプ県の位置 | |
座標 : 北緯42度02分 東経35度09分 / 北緯42.033度 東経35.150度 | |
行政 | |
国 | トルコ |
県 | スィノプ県 |
市 | スィノプ |
市長 | Zeki Yılmazer |
人口 | |
人口 | (2000年現在) |
市域 | 49,439人 |
市街地 | 30,442人 |
その他 | |
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) |
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) |
郵便番号 | 57000 |
市外局番 | 0 368 |
ナンバープレート | 57 |
公式ウェブサイト : http://www.sinop.bel.tr/ |
スィノプ(トルコ語: Sinop)または、シノーペー(ギリシア語: Σινώπη/Sinope)は、トルコ北部のスィノプ県の県都であり、黒海に突き出たスィノプ岬の北端にある町である。古代にはパフラゴニア地方にあたる地域であり、歴史的にはシノーペーとして知られている。
歴史
もともとスィノプの町は、ヒッタイト人が港として利用していたシヌワ(Sinuwa)という港であった。紀元前7世紀にミレトスからの入植者が、町に作り変え移住してシノーペーとなった。黒海貿易の港としてユーフラテス川上流の谷からの交易ルートが結ばれたため、シノーペーの町は繁栄した。シノーペの町は独自の貨幣を造り、また住民を新たな土地へ入植させた。さらには、カッパドキア地方で産出されるヒ素が、「シノーペーの赤土(Miltos Sinôpikê)」や「シノープル」などと呼ばれるまでに至った。紀元前4世紀になると、アケメネス朝の支配下に入り、その後ポントス王ファルナケス1世に攻略され、ポントス王国の首都となった。紀元前70年に共和制ローマの執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルスに占領された後に、ローマの統治下に入った。また紀元前47年には、ユリウス・カエサルがこの地にコローニア・ユリア・フェリックス(Colonia Iulia Felix)という植民地を建設した。シノーペーはミトリダテス6世やディオゲネス、喜劇作家のディフィルス、歴史家のバトン、2世紀の異端キリスト教徒のマルキオンの出身地でもある。
ローマ帝国の東西分裂後、シノーペーは東ローマ帝国領となった。1204年の第4回十字軍によってコンスタンティノープルが陥落すると、トレビゾンド帝国の領土となり、1214年にルーム・セルジューク朝に征服された。
ルーム・セルジューク朝の衰退した1261年から、スィノプの町はペルヴァーネ首長国とチャンダルル首長国の首都となった。その後1458年にオスマン帝国に占領された。1853年11月のクリミア戦争の初期には、スィノプでシノープの海戦が行われ、ロシア帝国のパーヴェル・ナヒーモフがオスマン帝国のフリーゲート艦隊を沈没させた。このことはイギリスとフランスがロシアに宣戦するきっかけとなった。
参考
- John Garstang, The Hittite Empire (University Press, Edinburgh, 1930).