エイラート (駆逐艦)

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エイラート (2代目)
2代目エイラート (INS Eilat)
基本情報
建造所 キャメル・レアード
運用者  イギリス海軍
 イスラエル海軍
級名 Z級 駆逐艦
艦歴
発注 1942年2月12日
起工 1943年5月5日
進水 1944年2月28日
就役 1944年10月9日 (イギリス海軍)
1955年7月15日にイスラエルへ売却
1956年7月就役
最期 1967年10月21日撃沈
改名 ゼラス (新造時)
エイラート (1955年)
要目
排水量 1,710トン
長さ 262.7 ft (80.1 m)
35.7 ft (10.9 m)
主機 ギア減速タービン2軸
40,000 hp
速力 37ノット
乗員 186人
兵装 4.5 インチ砲 4基
40mm砲 5基
魚雷発射管 8基
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エイラート(Elath,Eilat,Eilath、אילת)は、イスラエル駆逐艦である。艦名は、紅海の北・アカバ湾に臨むイスラエル最南端の港湾都市エイラートに由来する。

現在までに、イスラエル海軍において同名の駆逐艦が2隻、コルベットが1隻存在する。

初代 (INS Eilat, A-16)

1927年に建造され、除籍、売却された米国沿岸警備隊の耐氷巡視船ノースランド(USCGC Northland (WPG-49)を、 シオニズム団体が購入し、マディーナ・イヴリットMedina Ivrit)と命名し欧州のユダヤ難民をパレスチナに運ぶ任務に従事していたものを、1948年、イスラエル建国に伴いイスラエル海軍に編入し、後にエイラートと改名し正式に就役させた。

就役後はイスラエル海軍旗艦となり、魚雷艇/哨戒艇母艦として運用された。1955年には後述の2代目エイラートに名を譲ってマツペンMatzpen、ヘブライ語で「羅針盤」の意味)と改名され、係留宿泊艦及び水上倉庫となり、1961年、除籍された。

2代目 (INS Eilat, K-40)

1944年に建造されたイギリス海軍Z級駆逐艦ゼラス(HMS Zealous (R39))を1955年にイスラエルが購入し、1956年7月にイスラエル海軍駆逐艦"エイラート"として就役した。

1956年10月31日、第二次中東戦争でエイラートはエジプトの駆逐艦イブラヒム・エル=アワル(Ibrahim el-Awal)との戦闘に参加し、これを退けた。イブラヒム・エル=アワルはイスラエル空軍第113飛行隊ウーラガン戦闘機の攻撃によって航行不能に陥り、降伏した。鹵獲されたイブラヒム・エル=アワルはイスラエル海軍の駆逐艦"ハイファ"(Haifa)となった[1]

エイラートは第三次中東戦争後の1967年10月21日に、エジプト海軍のミサイル艇の攻撃により撃沈された(エイラート事件)。199人の乗員中、47人が死亡し、41人が負傷した。

3代目 (INS Eilat, 501)

サール5型コルベットの1番艦。

1994年に就役し現在も就役中である。

エイラート事件

エイラート(2代目)は1967年7月の11日から12日にかけての夜間に2隻のイスラエルの魚雷艇と共に哨戒中にRumani沿岸で2隻のエジプトの魚雷艇に遭遇した。彼らはすぐに交戦に入り、これを2隻とも撃沈した。[2]

1967年10月21日、エイラートは他のイスラエル海軍艦艇とともに北アフリカ北東沿岸を哨戒中、シナイ半島ポートサイド沖の公海上でエジプトのミサイル艇が放ったP-15 テルミート 対艦ミサイル(NATOコードネーム SS-N-2“スティクス”)によって撃沈された。

エジプト軍はポートサイドの海軍司令部から駆逐艦の動きに関して定期的に報告を受けた。エジプト海軍の弱さを示す為に挑発的な領海侵犯を繰り返すイスラエルの駆逐艦を攻撃する為に、エジプト海軍は司令部からの出撃命令に備えて警戒態勢に入った。[3]エジプト海軍のコマール型ミサイル艇ポートサイドで2発のミサイルをイスラエルの駆逐艦エイラートに向けて発射した。ミサイル発射の時、ミサイル艇はまだ港内にいたためエイラートのレーダーは不審な動きや行動を探知できなかった。[4]

ミサイルを探知した時、艦長は回避行動を命じたが、17:32に最初のミサイルが喫水線のわずか上に命中した。2分後、2発目のミサイルが命中して更に死傷者が増えた。エイラートは大きく傾き始め、乗員たちはイスラエル海軍の他の艦艇が救助に到着するまでの間、負傷者の世話と修理に励んだ。しかし、約1時間後、別のコマール型ミサイル艇がさらに2発のP-15 ミサイルを発射し、3発目が船体中央部に命中して損傷と火災を広げ、4発目は迷走して水中に墜落した。エイラートは約1分後に沈没した。

沈没の余波

駆逐艦がミサイル艇の発射した対艦ミサイルに撃沈されたのは初めてのことだった。第二次世界大戦魚雷艇のように極小さな戦闘艇が大きな目標を撃破しうる力をいまだに有していることが実証された。また対艦ミサイルにさほど注力していなかった西側諸国にも衝撃を与え、ミサイルや対抗策の開発が活発化する。

第三次中東戦争の敗北の数ヶ月後に撃沈した事により、群衆がポートサイドへ集まり、2隻のミサイル艇の帰還を歓喜によって迎えた。[5]イスラエルでは参謀総長イツハク・ラビンが怒りに燃える群衆に取り囲まれ新聞の社説は復讐を求めた。67時間後、イスラエルは重迫撃砲でスエズ港を砲撃した。3基の製油所のうち2基が破壊され、最も小さい1つだけが残された。この製油所群ではエジプトの調理・暖房用ガスの全部と石油の80%を生産していた。

脚注

  1. ^ Suez Crisis
  2. ^ Israeli Naval History
  3. ^ http://yom-kippur-1973.info/eng/before/Eilat.htm
  4. ^ Bruce A. and Cogar W. 1998. Encyclopedia of Naval History. Routledge.
  5. ^ Middle East: A Bitter Exchange Time Magazine November 3, 1967

出典

  • Raven, Alan; Roberts, John (1978). War Built Destroyers O to Z Classes. London: Bivouac Books. ISBN 0-85680-010-4 
  • Whitley, M. J. (1988). Destroyers of World War 2. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-326-1 

関連項目

外部リンク