アル・ジョルソン
Al Jolson アル・ジョルソン | |
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本名 | Asa Yoelson |
生年月日 | 1886年5月26日 |
没年月日 | 1950年10月23日(64歳没) |
出生地 | ロシア帝国統治下のリトアニア |
国籍 | アメリカ合衆国 |
民族 | ユダヤ系アメリカ人(リトアニア系) |
職業 | 俳優、歌手、エンターテイナー |
活動内容 | 映画、歌手、ミュージカル |
配偶者 | あり |
公式サイト | http://www.jolson.org |
主な作品 | |
映画 『ジャズ・シンガー』 『ジョルスン物語』(歌唱のみ) |
アル・ジョルソン(Al Jolson、1886年5月26日 - 1950年10月23日)は、ロシア帝国統治下のリトアニアに生まれたアメリカ合衆国の歌手、俳優。20世紀のアメリカを代表するエンターテイナーの1人。
プロフィール
デビュー
エイサ・ヨエルソン (Asa Yoelson) としてリトアニアのセレジウス (Seredžius) で東欧系ユダヤ人の家庭に生まれる。父はハッザーン(ユダヤ教の礼拝における先唱者)であった。一族の本来の苗字はヘッセルソン (Hesselson) である。幼い頃に家族と共に渡米し、その後ブロードウェイで人気歌手となった。
映画デビュー
ジョルソンは、1926年に、ヴァイタフォンによる音声付き映画の短編作品『A Plantation Act(農園シーンでの歌)』に出演し[1]、翌1927年には、商業的に成功した最初の長編トーキー映画『ジャズ・シンガー』で主演を務め、トーキー時代の幕を開けた[2]。歌手としての代表作はジョージ・ガーシュウィンの「スワニー」である。
なおこの頃のジョルソンは、ミンストレル・ショーを彷彿とさせる黒塗りの顔で黒人を演じ、大げさな演技と黒人的な要素を大幅に取り込んだ歌唱法、口笛、そして聴衆に直接語りかけるスタイルを確立し、有色人種に対する人種差別が法的に認められていた当時のアメリカで人気を得た。
政治的には保守派であり、1924年の選挙に際しては、民主党候補ジョン・ウィリアム・デイヴィスを支持していた他のユダヤ系芸能人と違って、デイヴィスの対立候補のカルヴィン・クーリッジを支持した。
スター
1940年にブロードウェイを引退してからはラジオや映画で活躍。1941年12月にアメリカも参戦した第二次世界大戦では、参戦から終戦に至るまでヨーロッパ戦線を中心に多くの慰問を行った。
1946年にはコロンビア社が彼の伝記映画『ジョルスン物語』を作り、『風と共に去りぬ』以来の大入りを記録。1948年には人気投票でフランク・シナトラやビング・クロスビーやペリー・コモを凌ぎ、「最も人気ある男性歌手」部門で1位となった。
死去
1950年に、医師の反対を振り切って朝鮮半島のアメリカ軍へ慰問に行き、心臓を悪くしたことが彼の死因となった。ジョルソンが心臓麻痺によりサンフランシスコで亡くなった日に、ブロードウェイは彼を偲んで10分間電灯を消した。
現在の評価
ジョルソンとその功績は今日ほとんど無視されている。「ミンストレル・ショー」を彷彿とする黒塗りの顔で黒人を演じたことが、人種差別を助長するものと見なされているためである。なお、この様な演技手法は、公民権法施行前の、有色人種に対する人種差別が合法であったアメリカにおいては「問題ない」とされていた。
脚注
- ^ A Plantation Act - IMDb(英語)
- ^ “Changes in American culture and society: How did popular entertainment develop during this period?”. BBC. 2014年10月4日閲覧。