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やぐら

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やぐら(窟・岩倉)は、神奈川県鎌倉市地方を中心に存在する中世の横穴墳墓、供養所である。

やぐら(多宝寺跡やぐら群)

概要

鎌倉市旧市街(鎌倉12ヶ村)を取り巻く丘陵部などに密集して存在している。戦時中の防空壕や古代の横穴古墳と混同される場合があるが、やぐらという言葉自体は上記の中世の上流階級の墳墓についてだけを言う。なお、「やぐら」という名称は鎌倉地方における岩窟(イワクラ)などの訛であるとされる。江戸時代の史料には、すでに「窟」の字に「ヤグラ」というルビがふられている。以前の考え方では「矢倉」という漢字を当てはめて武器の保存庫などと考えることもあった。現在では、漢字を用いずに、「やぐら」または「ヤグラ」という名称を用いるのが普通である。

構造

やぐらの構造としては、山中の斜面部に多く四角形の穴をあけた洞穴で、羨道(せんどう)と呼ばれる入り口を経て、玄室(げんしつ)と呼ばれるやぐら内部に至る。その大きさは、一辺1m - 5mで、大体直方体の形をしている。鎌倉時代のやぐらは、羨道を持つが、室町時代のやぐらは入り口から直接玄室となっていることが多い。多くやぐらの入り口(鎌倉期のやぐらであれば、羨道の入り口、羨門(せんもん))には木製の扉がつけられていたようで、いくつかのやぐらには扉をつけた痕が残っている。(後述唐糸やぐらを参照)

遺骸は火葬されており、現在でも粉砕した火葬骨が発見される。内部壁または玄室床部分に納骨穴がある場合もあるが、納骨施設がなく蔵骨器を内部に置くだけのところもある。壁にある納骨穴は四角形や丸型に造られており、中にはを模ったものもある。(後述日月やぐら(じつげつやぐら)を参照)

内部

現在見ることのできるやぐらには多く石造の五輪塔が置いてある。その他、やぐらには内部彫刻がある場合、地蔵菩薩等の石像が置いてある場合などがある。

塔婆
多くのやぐらの内部には板碑、五輪塔が置いてある。これらは、もちろん後世に置かれたものとも考えられるが、中には鎌倉期、室町期のものもあり、墓塔として、あるいは追善供養のために建てられた塔である。中には五輪塔ではなく宝篋印塔(ほうきょういんとう)が置いてある場合もある。
石仏
やぐらの本尊として置かれている。彫刻として彫られたものもあれば、他で作られて置かれたものもある。置かれたものは多く納骨穴の蓋代わりになっている例が見られる。
彫刻
仏像、五輪塔、板碑位牌などがやぐらの壁に彫られている例が見られる。
彩色
西御門谷奥の朱垂木やぐらには、内部天井部にベンガラを用いて朱色で屋根の垂木を模したものが描かれていた痕跡が見られる。やぐらに彩色が施されていたことがわかる例である。

歴史

やぐらのような様式の墳墓が発生した理由には、広く鎌倉幕府開府後の鎌倉の地理・人口状況が関与しているとされている。もともと中世期の上流階級(武士など)の埋葬方法は法華堂と呼ばれる堂を建て、そこに葬るという方式をとっていた。法華堂の中には自分の信仰する仏像や位牌などを納めていたようで、供養のための仏堂と墓を一緒にしたものと考えていいだろう。

よく知られている例では正治元年(1199年)に死去した源頼朝の場合は現在の「頼朝の墓」(神奈川県鎌倉市西御門2丁目)とされている場所にあった頼朝の持仏堂が、そのまま法華堂、つまり頼朝の堂になったとされている。ただし、この頼朝法華堂自体は、鎌倉幕府創設者の墓だけあって大寺院であったらしい。他の幕府の有力者たちもこのような法華堂様式で葬られた。

しかしながら、承久の乱以後、鎌倉が政治的に絶対の権力を持つようになると、経済都市としても変貌をとげた。このため、鎌倉の人口は急増、都市として平地の必要性が増えた。多くの武士たちが法華堂様式で葬られると平地が減ってしまうという事態になったと見られる。

この頃に前後して仁治3年(1242年)に九州豊後府中の御家人、大友頼泰が市街地への墓所の建設を禁じる法令を出している。大友氏は幕府の法令や施政を模倣していることから、これ以前に第3代執権北条泰時によって、幕府がこのような法令を出していたのではないかと言われている。市街地への墓所建設が禁止されたため、墓所が山中になったと考えられる。また、木造の法華堂には焼失の危険性があったのに対し、岩を削ったやぐらは燃えないので、その転換と改葬が行われたものだと考えられている。

やぐらを用いる埋葬形式は、室町時代には衰退したらしい。その後は、倉庫となったり、新たに土葬するために遺体が入れられたりすることもあったことが分かっている。

ただし、以上のやぐらの起源に関することは通説で、当時の鎌倉市中に、人口増加によって墓地が増える問題があったかどうかは、史料としても遺跡としても残っていない。民衆や武士たちの当時の墓のあり方が実際にはどうであったかは、今も不明である。やぐら内部に副葬品が置かれることはまずなく、被葬者がどういう者であったかを知るのは難しい。故郷の国々に菩提寺を持つ武士たちが、鎌倉に墓を必要としたかは疑わしいだけに、やぐらの被葬者は、ただ単に武士というよりも、さらに限られた階級、特に僧侶仏師などがあげられるのではないかと考える見方もある。

現状

現在ではハイキングコースに面しているような人目につきやすいやぐらでも、埋没するなど現状はかなり荒廃している。ましてや人目につきにくいやぐらは、いっそう埋没や荒廃が顕著である。過去にはやぐらの発掘調査が行われたが、現在行われているやぐらの発掘調査は、主に急傾斜地の崩落対策工事に伴うものや宅地開発前に形式的に行われるものだけである。

また、やぐらはいたずらや、宅地開発など土木工事による破壊からも免れられず、貴重なやぐらの破壊は今なお続いている。鎌倉だけで2000(5000とも)を超えるやぐらがあるとされているが、そのうち市の指定史跡となっているやぐらは、東瓜ヶ谷の5基のみで、その他は特に指定などは行われていない。

代表的なやぐら

鎌倉市内の有名なやぐら

  • お塔の窪やぐら 十二所山中。北条高時の墓所と伝えるやぐらのうちの一つ。籾塔と呼ばれる鎌倉最古の宝篋印塔がある。
  • 唐糸やぐら 釈迦堂切通し近く。鎌倉時代中期。やぐらの扉をつけた痕跡が顕著に見られるため「唐糸草子」の牢屋の伝説を生み出した。
  • 日月やぐら 釈迦堂切通し直上。鎌倉時代末期。日と月を模った納骨穴を内部壁に持つ。
  • 首やぐら 瑞泉寺裏山。北条高時の首塚と伝えるやぐらのうちの一つ。貝吹地蔵に地蔵信仰の伝承を併せ持つ。
  • 釈迦堂奥やぐら 浄明寺釈迦堂谷奥。鎌倉幕府崩壊時の東勝寺合戦の戦死者を葬った伝承があり、それを裏付ける日付の入った五輪塔の一部が見つかった。宅地開発で主要部は破壊されたが、一部が現存しているという。
  • 朱垂木やぐら 西御門谷山中。前述参考。
  • 腹切りやぐら 小町3丁目の東勝寺跡近く。北条高時らが付近で切腹したという
  • 多宝寺跡やぐら 扇ガ谷山中。覚賢塔という巨大な五輪塔を中心に存在。
  • 東瓜ヶ谷やぐら 東瓜ヶ谷谷底。郡中で最大の地蔵やぐらには多彩な彫刻、そのほかのやぐらにも五輪塔のレリーフが見える。
  • 東泉水やぐら 東泉水谷。立派な五輪塔のレリーフを数基持つ。
  • 百八やぐら 二階堂覚園寺裏山一帯。200近いやぐらが密集する。すべての様式のやぐらが存在する。ここには仏師も埋葬されたようである。
  • 十四やぐら 西瓜ヶ谷の山中。14の五輪塔のレリーフを持つ。

鎌倉以外のやぐら

神奈川県鎌倉市とその周辺以外には大磯町平塚市三浦半島伊豆半島、海を隔てた安房にもやぐらが存在する。

また、東北地方仙台市松島瑞巌寺など)や広島県京都府石川県にもやぐらと同じ意義を持つ横穴墳墓が存在している。しかし一般にはそれらをやぐらという名称では呼ばれず、やぐらとの関係は不明である。

参考文献