E・メイソン・ホッパー

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E. Mason Hopper
E・メイソン・ホッパー
生年月日 1885年12月6日
没年月日 1967年1月3日(満81歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 バーモント州エノスバーグ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズ
職業 映画監督脚本家俳優
ジャンル サイレント映画、初期トーキー
活動期間 1911年 - 1950年

E・メイソン・ホッパーE. Mason Hopper, 1885年12月6日 - 1967年1月3日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家俳優である[1]

人物・来歴[編集]

1885年(明治18年)12月6日、アメリカ合衆国のバーモント州エノスバーグに生まれる[1]

ヴォードヴィル俳優、食品加工業、野球選手などの職に就き、メリーランド大学カレッジパーク校の学生を経て、満25歳となった1911年(明治44年)、当時シカゴにあったエッサネイ・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニー(エッサネイ・スタジオ)に入社する[2]。1914年(大正3年)までに同社で1巻ものの短篇映画を量産する。1915年(大正4年)から、エクィタブル・モーション・ピクチャーズ・カンパニーやジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー(フェイマス・プレイヤー=ラスキン)、 アメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーを渡り歩き、1916年(大正5年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)傘下に設立されたブルーバード映画で、ゾーイ・レイを主演に『小国民』を監督[1]、同作は日本でも公開された[3]。同年、フェイマス・プレイヤー=ラスキンの兄弟会社パレス・ピクチャーズに入社、同社での監督作はパラマウント映画が配給した[1]。1917年(大正6年)には、トライアングル・フィルム・コーポレーションに移籍している[1]

1920年(大正9年)、ゴールドウィン・ピクチャーズに移籍、エドワード・ピール・ジュニア主演ものを多く手がける[1]。1923年(大正12年)からはコスモポリタン・プロダクションズに移籍している[1]。1926年(大正15年)からはメトロポリタン・ピクチャーズに在籍した[1]。1927年(昭和2年)、The Wise Wife 以降は、セシル・B・デミルのデミル・ピクチャーズで仕事をした[1]。1929年(昭和4年)にはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに移籍している[1]。1935年(昭和10年)、トム・キーン主演の Hong Kong Nights 以降は、監督としてはクレジットされていない[1]

1936年(昭和11年)、クレジットはされていないが、ジョージ・キューカー監督の『椿姫』のモブシーンを演出、1938年(昭和13年)には、満52歳にして、クラレンス・ブラウン監督の Of Human Hearts助監督を務めた[1]。1943年(昭和18年)以降は、クレジットされない端役の役者に転向している[1]

1967年(昭和42年)1月3日カリフォルニア州ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズで死去した[1]。満81歳没。

おもなフィルモグラフィ[編集]

特筆以外は監督のみである[1]Internet Movie Databaseの記述によれば、1930年代の書物にすでに350作を監督、400作のシナリオを執筆した旨の記述があるとのこと、作品は同サイトのリストに収まりきれていない[1]

関連事項[編集]

[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p E. Mason Hopper, Internet Movie Database (英語), 2010年4月25日閲覧。
  2. ^ E. Mason Hopper, allmovie, 2010年4月25日閲覧。
  3. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.

外部リンク[編集]