アンニー可愛や

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アンニー可愛や
Little Annie Rooney
ポスター(1925)
監督 ウィリアム・ボーディン英語版
脚本 メアリー・ピックフォード(原案)
ホープ・ロアリング
ルイス・D・ライトン
製作 メアリー・ピックフォード
出演者 メアリー・ピックフォード
ウィリアム・ヘインズ
撮影 チャールズ・ロッシャー
ハル・モーア英語版
配給 アメリカ合衆国の旗 ユナイテッド・アーティスツ
公開 アメリカ合衆国の旗 1925年10月18日
大日本帝国の旗 1926年4月16日[1]
上映時間 95分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 サイレント(英語インタータイトル)
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アンニー可愛や』(アンニーかわいや、Little Annie Rooney)は、1925年に公開されたアメリカ合衆国サイレントコメディドラマ映画。監督はウィリアム・ボーディン英語版ニューヨークのスラムに暮らすアイルランド系の少女アニー・ルーニーに扮したのは当時33歳だった大女優メアリー・ピックフォード。大人の女性を演じた前2本は興行的にふるわなかったが、この作品はこの年最大のヒットを記録した。

2014年映画芸術科学アカデミーによりレストアされた。

あらすじ[編集]

少女アニー・ルーニーは日々近所の悪ガキたちと喧嘩ばかりしてるお転婆少女。しかし家では亡くなった母親の代わりに家事を任されている。父親は皆から慕われる優しいおまわりさん。一方、兄のティムは街のギャングたちとつるんでいる。アニーは兄の悪友の一人ジョーに恋をしている。

ある日、ダンスパーティでギャングたちが女をめぐってトラブルになる。止めに入ったアニーの父が射たれて死ぬ。母親に続いて父親も失い傷心のアニー。

警察による捜査がはじまる。犯人たちはジョーが射ったという嘘を広める。ティムはそれを信じ、復讐しようとジョーをつけ狙う。

ジョーの無実を信じるアニーは悪ガキたちに協力を求める。悪ガキたちは情報を集め、真犯人をつきとめ、つかまえて警察に突き出す。

そこにティムが自首しにくる。ジョーを射ったというのだ。アニーは病院に駆けつける。輸血が必要だと知り血液を提供する。子供のアニーは死ぬ覚悟で、遺書まで残す。もちろん輸血で死ぬはずがなく、ジョーも一命を取り留める。

数カ月後、いつの日かジョーとの結婚を夢見るアニーはジョーと街をドライブしている。ただし車はトラックで荷台には悪ガキどもが乗っている。交差点で一時停止する。そこで交通整理をしていたのは真人間になった兄のティムだった。

キャスト[編集]

アニーに扮したピックフォード
  • アニー・ルーニー:メアリー・ピックフォード
  • ジョー・ケリー:ウィリアム・ヘインズ
  • ルーニー巡査:ウォルター・ジェームズ
  • ティム・ルーニー:ゴードン・グリフィス英語版
  • トニー:カルロ・スキーパ
  • アビー:スペック・オドンネル
  • スパイダー:ヒュー・フェイ
  • マミー:ヴォラ・ヴェイル
  • ミッキー:ジョー・バターウォース
  • エイソス:オスカー・ルドルフ
  • ヒュミドール:ユージン・ジャクソン

制作[編集]

"アメリカの恋人"メアリー・ピックフォードは、ボロを着た少女役で人気を博したが、かねがね年相応の役を演じたいと思っていた[2]。ピックフォードはユナイテッド・アーティスツの創始者の一人だったので、『ロジタ英語版』(1923年)や『ドロシー・ヴァーノン英語版』(1924年)の2本を自らプロデュースし、大人の役を演じた。しかし、観客は彼女がふたたび「巻毛の少女」を演じることを望んでいた。1925年、ピックフォードは『フォトプレイ』誌で自分にどんな役を演じてもらいたいか質問したところ、2万通の回答があった。ファンは赤毛のアンアルプスの少女ハイジ不思議の国のアリスといった少女役を希望した[3]。ピックフォードは当時33歳だったがファンの要望に応じ、少女役に戻ることにした[4]

"通りに暮らす元気なアイルランド娘"という設定は、ピックフォードがハリウッドの裏宅地をぶらぶら歩いている時に思いついた。アイルランド系アメリカ人の意見を聴くために、コメディアンのメーベル・ノーマンドに電話で尋ねた[5]

ピックフォードはミュージックホールのヒット曲「リトル・アーニー・ルーニー」をキャラクターのベースにすることにした。この曲は字幕でも2回登場する。1889年に作られたもので現在は忘れられているが、当時は大変人気があり、コミック・ストリップ(1927年-1966年)や短編アニメ(1931年)にもなった。ピックフォードは祖母の名前キャサリン・ヘネシー名義でプロットも執筆した[6]

脚本は『つばさ』『あれ』で知られる、夫婦コンビのホープ・ロアリング、ルイス・D・ライトンに依頼。撮影監督には後に『サンライズ』で第1回アカデミー撮影賞を受賞するチャールズ・ロッシャー。監督には『いとしの我児』『子供の世界』のウィリアム・ボーディン英語版を起用した。いずれもピックフォードが選んでいる。

子どもたちがアイルランド系、ギリシャ系、ユダヤ系、イタリア系、中国系、アフリカ系と多民族で構成されているのは『アワ・ギャング英語版』の影響と思われるが、この映画ではそれより貧しい地区を舞台としている。公開当時の広告ではアニーを移民が多く住まい、1970年代までドヤ街だった"バワリーの王女"としている[7]。貧民街の巨大セットはピックフォード=フェアバンクス・スタジオ(現在のサミュエル・ゴールドウィン・スタジオ)に建設された[8]

撮影中、メアリー・ピックフォードはカリフォルニア訪問中のヘレン・ケラーと会食し、自分が舞台で最初に演じたのは盲目の少女であること、盲目の少女が主人公の映画を企画していることを話し、ヘレン・ケラーから演技についてアドバイスしてもらう約束を取り付けた[9]

興行と評価[編集]

映画は大ヒットし、この年最高の興行収入をあげた[10][11]

イギリスの映画史家ケヴィン・ブラウンローはこの映画についてこう述べている。「これがすべてピックフォード=フェアバンクス・スタジオで撮られたのかと考えると驚くばかり。30代の女優の芸術性、技術、迫力が勝利に輝いている」[8]

出典[編集]

  1. ^ 『20世紀アメリカ映画事典』(カタログハウス、2002)
  2. ^ The Pickford Waif”. MaryPickford.org. 2015年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月19日閲覧。
  3. ^ Leavey, Peggy Dymond (2011). Mary Pickford: Canada's Silent Siren, America's Sweetheart. Toronto: Dundurn 
  4. ^ “Little Annie Rooney: Mary Pickford's return to childhood, newly restored”. Los Angeles Times. オリジナルの2015年10月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151016151721/http://www.latimes.com/entertainment/movies/moviesnow/la-et-mn-mary-pickford-academy-screening-20141101-story.html 2020年4月19日閲覧。 
  5. ^ Little Annie Rooney”. Turner Classic Movies. 2015年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月19日閲覧。
  6. ^ Bronlow, Kevin (1999). Mary Pickford Rediscovered: Rare Pictures of a Hollywood Legend. New York: Abrams 
  7. ^ Little Annie Rooney (1925), https://www.imdb.com/media/rm93244672/tt0016028 2020年4月19日閲覧。 
  8. ^ a b The Costume of Silent Drama: Mary Pickford and Little Annie Rooney”. Oscars.org. 2015年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月19日閲覧。
  9. ^ 岩橋武夫 訳『わたしの生涯』KADOKAWA、1966年、394頁。ISBN 978-4043142019 
  10. ^ Little Annie Rooney”. Variety. 2015年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月19日閲覧。
  11. ^ Little Annie Rooney (1925)”. New York Times. 2015年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月19日閲覧。

外部リンク[編集]