ノート:釈迦

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「光明」と云われても、わからない[編集]

一般人が初見で「光明」と云われても、わからないんですけれど・・・ 「悟り」と書いてはいけないの? そんなところで、粋がるためにやっているんじゃなくて、 みんなで相互に知識を高めるためじゃないのですか?—以上の署名の無いコメントは、219.123.57.242ノート/Whois)さんが[2003年7月5日 (土) 03:58 (UTC)]に投稿したものです。[返信]

”光明”の記事があったのでリンクしてみました。確かに、光明という言葉は一般的になりすぎて、なんでここで使われるのかと思われる可能性はあると思います。事実、光明がこんなに仏教と深い繋がりがあると知ったのは自分も最近のことです。43.244.12.55 04:16 2003年7月5日 (UTC)

リンクしてくださいということではなくて、悟りという内容の中で本来の仏教の概念である光明を解説すればよいのであって、いきなり見たページに光明前・光明後とあるのは変ですよと指摘したのです。—以上の署名の無いコメントは、219.123.57.242ノート/Whois)さんが[2003年7月5日 (土) 04:28 (UTC)]に投稿したものです。[返信]

  • 「光明」は一般的に使われていると勘違いしていました、そういわれると悟りの方が一般的でしょう。悟りを開いた仏教僧は沢山いると思うので、別に高い低いを言うつもりはないですが、ちょっと高級に感じる光明を使ったつもりでした。
あと、ご自分で編集されても良いかと思います。一般的に「ある」ものを消すと意見の相違がでますが、消さずに追加する形だと問題は比較的置きにくいと思います。今回は、「光明」->「悟り(光明)」としてみました。--Setu 05:20 2003年7月5日 (UTC)

阿弥陀仏でもそうなんですが、「光明」というのは密教が完成してから言われることが多いというのが学説です。「悟り(光明)」と言う言い方は、どうしても密教以後のヒンズーの臭いが感じられます。チベット系ならそれでも良いのでしょうが‥‥
それと、釈迦には古来の説明を入れて、ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・ブッダを残すというのはどうでしょう? 今のままでは、一宗一派に偏していると感じられます。
booze 15:04 2003年7月10日 (UTC)

「ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・ブッダを残すというのはどうでしょう」とおっしゃるのは、ノート:ゴータマ・シッダッタでの議論のことですか? ぜひ議論に加わってください。本職の方にぜひ助けていただきたい。るがこむ 15:09 2003年7月10日 (UTC)


すでに「光明」についてはfbud@nifty.comでかなり議論がありましたが、ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・ブッダに執着する気持ちもわからないではありませんので、鼎立でも良いのではないかと思ったのです。アメリカの新仏教運動やチベット仏教を信奉するグループの活動によって、「光明」という言い方は確かに欧米では定着しつつありましたので、一概に否定できません。ただ、そうなると釈迦についての説明はやはり旧来の説明を入れることとなると思います。
いずれにせよ長老部・大乗・密教の3つに分けて説明しなくてはならないと思います。
booze 22:08 2003年7月11日 (UTC)

チベット仏教の釈迦派[編集]

チベット仏教の一派を釈迦派というそうです。

http://www.wikipedia.org/wiki/Tibetan_Buddhism
http://j.people.ne.jp/2001/09/07/jp20010907_9081.html

これも入れないといけないんでしょうか。出でやる 04:36 2003年7月5日 (UTC)

チベット仏教のSakya派は日本では「サキャ派」と表記されていますね。中国語では確かに「釈迦派」と表記するようなんですが、サキャ派の名前はこの派がチベットのサキャというところにあるサキャ寺に本山を置くことに由来するそうなので、お釈迦さまとは直接の関係はなさそうです。
あるいは、いっそ「釈迦派」は釈迦の関連項目から取ってしまっても良いのではないかと思います。Safkan 12:02 2003年9月1日 (UTC)
問題を理解しました。釈迦派はサキャ派に比べて無視できるほどしか使われていませんね(まだ「花教」の方が多い)。知識の乏しさゆえの誤りでした。en:Sakya などを見るにつけても、sakya と釈迦の間にあまり関係はなさそうです。関連記事から除くことにも賛成です。出でやる 12:51 2003年9月1日 (UTC)

記事名[編集]

今、釈迦を書いていますが、ボク自身は「釈迦」と呼び捨てにするのは、心に引っかかるナァ。釈尊と呼びたくなります。booze 22:30 2003年7月12日 (UTC)

記事名としては「釈迦」でしょうね。「釈迦」で一本化するということでどうでしょう? るがこむ 20:18 2003年7月14日 (UTC)

了解いたしました。釈迦の記事が完成してから、ゴータマ・シッダールタ、ゴータマ・ブッダの記事をどうするか考えたいと思います。booze 20:47 2003年7月14日 (UTC)

>釈尊と呼びたくなります。
それは、やはり自分の「はからい」です・・・よね。Adacom 00:29 2003年7月15日 (UTC)

そうなんですけどネ。
ところで、英語版に親鸞浄土真宗もないんだけど、日本語版から誰か翻訳ボランティアしてくれる人いないかな、ボクの英語じゃアテにならないもんで
booze 07:25 2003年7月15日 (UTC)

本願寺エライ先生沢山居るし・・・。じゃなきゃ、彦根の福田師に頼む。Adacom 08:05 2003年7月15日 (UTC)

とりあえず1st Editionを入れました。もう少し短くして涅槃経の詳しい解説は別にするほうが良いかもしれません。
booze 13:43 2003年7月15日 (UTC)

ガウタマかゴータマか[編集]

読み方が記事によって異なるのは一考を要すると思います。 とりあえず、この記事はゴータマに直しましたが・・・ 書籍などの題にガウタマをしているのもありますが、Wikipediaとして統一すべきでしょう。Authority 2005年3月21日 (月) 01:06 (UTC)[返信]

おしゃかになる[編集]

ものが壊れたり使い物にならなくなったときに「おしゃかになる」という言葉を使いますが釈迦のことを指しているのでしょうか?それだとしたらなぜ釈迦になることを壊れたり使い物にならないことのたとえになるのでしょうか?--078 2005年10月18日 (火) 04:07 (UTC)[返信]

元は江戸時代の鍛冶職人の隠語で駄目になった物の意味だそうですが、語源は諸説あります。
  1. 阿弥陀如来像だか菩薩像だかを鋳るつもりだったが、間違えて釈迦像を鋳たから
  2. ダメになった=死=仏=お釈迦という連想
  3. 江戸っ子訛りで「しがつよかった(火が強かった)」=「四月八日だ」=釈迦の誕生日という連想
後ろの2つは4月8日に書いてありましたが、どれも微妙な説ですね。--shikai shaw 2005年10月18日 (火) 04:44 (UTC)[返信]
4. ばくちに負けて身ぐるみ剥がされた様子が花祭りのお釈迦様そっくりだから by新明解
大辞林は1.のようです。辞典や学者によって異なる=語源は未だ不明という事でしょうか。図書館のサーチャーに訊いてみると代わりに調べてくれるかもしれません。--Kstigarbha 2005年10月18日 (火) 14:47 (UTC)[返信]
なるほどまだはっきりとしてはいないんですね。図書館にはまづいかないかもw--078 2005年10月19日 (水) 14:54 (UTC)[返信]

Romanized Sanskritの表記について[編集]

2つ質問です。

まず1つ目。このままKH-aa方式を用いるのか,ダイアクリティカルマーク付きの文字を使うのかについて。

Wikipediaのサンスクリットには

記号は標準的でないが、Wikipedia 日本版では一応この正書法をとる(京都・ハーバード方式)。

とあります。そこで京都・ハーバード方式の項を確かめてみたところ東京外大の高島先生が使用しているKH-aa方式のようでした(KH方式の中でもかなり亜流。KH方式についてはKH infoを参照)。本項ではそれに従って,

「釈迦」は釈迦牟尼(しゃかむに)(梵: शाक्यमुनि、zaakya-muni、シャーキャ・ムニ)の略である。

となっています。しかし,他の仏教関連の項目を見ると,ダイアクリティカルマークが付いた文字をそのまま入力しているものもあります。 例えば色界の項には,

色界(しきかい、rūpa-dhātu)は三界の一つ。

とあります。

これはどちらかに統一したほうがいいのでしょうか?個人的にはデーヴァナーガリーが表示できる環境でアルファベットだけの転写方式を用いる必要は無いと思います。

2つ目。同じくローマナイズされたサンスクリットについてですが,仏教関連の学会では複合語をローマナイズするとき,zaakya-muniではなくzaakyamuni,rūpa-dhātuではなくrūpadhātu,とハイフンをとって表記するのが標準的だと思います。

これについて,現行のままがいいのか,学会標準に合わせた方がいいのか,ご意見よろしくお願いします。--125.30.103.164 2006年10月29日 (日) 04:42 (UTC)[返信]

Peehyoro Acalaと申します。わざわざご質問頂けたのに、今まで気付かなくてすみませんでした。と、いってももう一年以上前の日付…、もう ここをご覧になっておられないかもしれませんね。一応Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 仏教の方で、意見を募ることに致しましたので、もし宜しければ議論にご参加お願い致します。Peehyoro Acala 2007年12月30日 (日) 13:16 (UTC)[返信]

出家項に、アーラーラ・カーラーマの到達した禅定の境地を「空無辺処」としてありますが、これは「無所有処」ではありませんか?又、些細なことかもしれませんが、ウッダカラーマ・プッタではなく、ウッダカ・ラーマプッタかと思うのですが。—以上の署名の無いコメントは、219.94.217.148ノート/Whois)さんが[2007年10月14日 (日) 01:27 (UTC)]に投稿したものです。[返信]

先ほど調べました。方廣大荘厳経7では「無所有処」とあるのでその説が一般的になっているのかと思いますが、南伝のManorathapurani26 Ariyapariyesana では「空無辺処」となっています。ですので併記しました。またウッダカラーマプッタはどこで区切るかですが、これも一般的にはご指摘の通りでしょう。ただし、プッタとは弗と音写し「子」と訳します。これは舎利弗が舎利子というのと同じです。なので鬱頭藍弗を鬱頭藍子とも漢訳します。したがって本当はウッダカ・ラーマ・プッタが正しいのかもしれません。--Boca samba 2007年10月14日 (日) 02:14 (UTC)[返信]

固有名詞の表記について[編集]

人名・地名などの固有名詞について、現状では漢字表記(漢訳名)が主に用いられています。これは日本の仏教用語としては主に用いられているのでしょう(専門的慣用)。しかし私のように専門外の人間にとってはとても読みにくいです。私はカナ表記(原音主義)にした方が読みやすいのではないかと思うのですが、皆さんの考えはいかがでしょうか。参考:Wikipedia:外来語表記法 --Anton21 2007年11月16日 (金) 10:37 (UTC)[返信]

専門外の人にできるだけわかりやすい表記方法にするのは個人的に大賛成です。ただし、こと仏教に関しては難しい面があるのではないでしょうか。訳に関しては音写と漢訳、またカナ表記だとサンスクリット語パーリ語(プラークリット語)の問題もあります。ウイキペディアに限らず現実的には表記がバラバラで統一されていないのが現状ではないでしょうか。個人的には仏教関連の記事や固有名詞はすべてできるだけ同一形式で表記できるようになれば良いと思っているのですが、たとえばカピラヴァストゥ=カピラバスツ=カピラバッツ、サーヴァッティー=シュラバスティーなど、すでに多用な表現が様々になされていて統一されていません。まずこれが問題なので、私も各書物や辞典などを参考にしつつも記事を書いたり編集する場合はいつもどうすればよいか迷います。それとカナ表記を中心にするとしても漢訳もある程度認知されているわけですから、ある程度の幅も持たせた上で最低限の記述は必要ではないでしょうか。何かいい案があればいいのですが…。他の方のご意見もお伺いしたいです。--Boca samba 2007年11月16日 (金) 13:26 (UTC)[返信]

確かに原音主義の場合表記揺れがあることは承知していますが、現状でも固有名詞はそれなりに書かれていますので、それを元にすればいいと思います。例えば、

  • 浄飯王(じょうぼんのう、シュッドーダナ Zddhodana) を、
  • シュッドーダナ(Zddhodana、浄飯王、じょうぼんのう)

とするということです。また、固有名詞について記事が存在する場合には、細かい表記はそちらに任せ、原音のみとします。つまり、

  • シュッドーダナ

ですね。なお現状の表記に従うのを基本としているので、サンスクリットとパーリ語のどちらを取るかについては考慮していません。この方式はいかがでしょうか。Anton21 2007年11月19日 (月) 10:41 (UTC)[返信]

入滅後の釈迦の評価について[編集]

あたかもインドにおける仏教がヒンドゥー諸派の迫害によって自然に滅んだように書かれていますが、一般にインドにおける仏教の終点はイスラーム勢力によるヴィクラマシーラ寺院の焼き討ちとされているので、追記の必要があるかと思います。

「仏教勢力の拡大」云々についても、大勢とならなかったのは確かですがグプタ朝のサンスクリット復興までは相当の影響力を有していた訳ですし、それ以後もジャイナ教同様に有力なマイノリティではあったのですから、少し乱暴な書き方に感じます。

ヴィシュヌのアヴァターラとしての釈迦に関する記述も「誹謗のため」として書かれていますが、釈迦がバーガヴァタ・プラーナに取り込まれた背景には衰退した後期の仏教が摂取された可能性もあり(法華経における提婆達多のような)、断言しかねる所だと思います。--210.174.17.54 2007年12月31日 (月) 01:39 (UTC)[返信]

タイポ?[編集]

「教下」→「教化」ではないでしょうか? --68er 2007年12月31日 (月) 11:11 (UTC)[返信]

出典を充実させませんか[編集]

出典をつけることができる方は、現代の文献の文献名(たとえば中村元の文献名)とそのページNo.を挙げるのと同時に、そこで記述されている情報源としての仏伝の名称や聖典名なども挙げて、出典を2重で提示していただくのが望ましい、あるいは理想的、と思われます。こうすると仏典ごとの釈迦像の微妙な相違点も浮かび上がってくるでしょうし、百科事典の記述としても深みが増すことでしょう。--Śākyamuni 2010年3月3日 (水) 12:29 (UTC)[返信]

Śākyamuniさんによる2010年3月3日の編集で{{要出典}}タグが9ヶ所にわたって加えられましたが、うち、タグ貼付けが妥当と思われるのは最初の2つのみではないでしょうか?
そこで記述されている情報源としての仏伝の名称や聖典名なども挙げて、出典を2重で提示していただくのが望ましい
と言われますが、まさかSATから原文を注として示せと言われる類のことが必要でしょうか。
Śākyamuniさんはご自身の紹介頁に仏伝に関わる経典を列記されています。タグを貼付けて以来、ご自身で該当の経典を示す努力をなしていない、ということは、ご自身は経典自体を確認されていないと疑われても仕方がありません。それ以前に、仏伝に関わる概説書の類さえお読みでないのではありませんか?中村元の『ゴータマ・ブッダ』はじめ、釈迦の伝記としての書物には大正蔵の何巻何頁何段まで注で指示されています。お望みならご自身で出来たことのはずです。
あまり言いたくないことですが、Śākyamuniさんが新たに作られた「困難な史実確定」の編集は、岩波哲学思想事典の文章の「てにをは」を変えられただけで、ご自身の手による文章は最後の一文のみでした。著作権侵害ギリギリだったのではないでしょうか。
経典の提示は編集される方々の努力義務として、ノートに議論を残すにとどめ、該当7ヶ所の要出典タグは一度外してよいと思いますが、如何でしょうか。この方針だと全文にわたって要出典になってしまいますから。まごまご 2010年4月18日 (日) 07:00 (UTC)[返信]
とくに異論のある方も居られないようなので、7カ所の要出典タグについて削除しました。--まごまご 2010年4月27日 (火) 13:30 (UTC)[返信]

仏様[編集]

「死者のことを仏様と呼ぶのは誤りだ」とありますが、言葉の由来に正否などあろうはずもなく、まったく無意味な記述であり、さらに出典も示されていないので独自研究です。削除を提案します。もし書くなら「死者のことを仏様と呼ぶ場合がある」だけにするべきでしょう。--91.14.152.213 2010年8月26日 (木) 21:35 (UTC)[返信]

特に異論がないようなので、「死者のことを仏様と呼ぶ場合があるが、これは誤りだ」という部分は「死者のことを仏様と呼ぶ場合がある」に変更しました。--91.14.137.132 2010年9月10日 (金) 21:44 (UTC)[返信]

ギャグ漫画について[編集]

「釈迦を題材にした作品」の覧に中村光聖☆おにいさん』の追加を強く願う方がおり、何度か追記と削除が繰り返されています。言うまでもない事ですが、釈迦が登場する創作物となると尋常ではない量になります。ために、「釈迦を題材にした作品」としては、少なくとも歴史上の釈迦を主題的にテーマとしたものに限ってあり、この点は釈迦の編集に参加しようとされる方々にとっては当然の了解であったと思われます。(ために数量が抑制されている)

例えばギャグ漫画でなくとも、小泉吉宏『ブッダとシッタカブッダ』のように原始仏教の基礎教理を解説する漫画でブッダが登場します。しかし、その場合も『ブッダとシッタカブッダ』作品中でブッダが豚のキャラクターとして描かれていることが問題なのではなく(このようなカリカチュア手塚治虫にも当然みられます)、歴史上の釈迦を主題とした作品ではないこと、原始仏教教理の解説役のアイコンとしてブッダが登場するに過ぎないからリンクとして追加が抑制されるのです。(この場合の豚キャラのブッダは、釈迦ではなく釈迦如来ないし「仏陀」です)

中村光聖☆おにいさん』は生活ギャグ漫画であり、当然カリカチュアをもって釈迦が描かれます。キリストとブッダが若しも現代社会で生活を共にしたら、という設定は面白く、ギャグ漫画として出色のものかも知れません。しかし、釈迦をギャグのネタにする不敬という宗教的護教観でなく、『ブッダとシッタカブッダ』同様の理由、「釈迦であればこのようでありそうだ」という虚像のアイコンとして釈迦が登場するに過ぎないということです。

この点の問題は難しく、手塚治虫の『ブッダ』も虚像としての釈迦伝ではあります(手塚自身が後記で断っている)。これは創作による事実からの乖離という問題だけでなく、私見でも、掲載元の出版社の関係(はっきり言えば創価学会系)で歴史上のブッダを時代錯誤的に枉げている部分もあります。それでも、手塚は直接に歴史上の釈迦を漫画的に解釈したのです。この事で、はじめから虚像としての釈迦をスタートとする作品と異なります。

しかし、ギャグ漫画の場合は作品中で描く釈迦がそのどちらであるか分からないのです。分からないためにギャグ/アイロニーとして成立するのだと思われます。もし釈迦でなく、一休宗純であればアニメの『一休さん』がリンクに追加されることに何の問題もないのです(実際、問題となっていません)。釈迦の場合は厳密なルールを適用しないと、一覧表だけで記事が埋まりかねません。何故なら、特に大日如来(法身仏)や阿弥陀仏(他方仏)などと明示されない限り、仏を題材にした作品は全て釈迦を題材としていると解釈して良いですし(常識的にはこう判断される方が多いでしょう)、極端にはジャータカのような前生譚を題材にしたものも含まれかねません。『聖☆おにいさん』において釈迦の相方であるイエス・キリストの記事には、追記を試みられていません。これはキリストに関しては項目立てが厳密化されており、どのイエスにリンクしてよいか迷われたのだと思います。中村光聖☆おにいさん』が追記に相応しいかどうかは、意外に深刻な問題が含まれていると思われますが、これについて、削除の理由を残しておきます。長文失礼218.221.133.140 2010年11月16日 (火) 04:30 (UTC)[返信]

細かい指摘ながら、作品名は『ブッタとシッタカブッタ』です。二ヶ所、濁点が付きません。豚だから「ブッタ」という駄洒落であって、あくまで釈迦牟尼仏陀とは違う存在(という設定)なのでしょうね。--死郎 2010年11月16日 (火) 13:18 (UTC)[返信]

釈迦涅槃時 釈迦の有縁の人々は誰が生存で、誰が死去していたのですか?[編集]

釈迦涅槃時 両親、異母兄弟、妻、子、釈迦十大弟子、五比丘、三迦葉、デーヴァダッタ、六群比丘、古代インド諸国の王族や庶民など、誰が生存し、誰が死去していたのですか?

Wikipediaのノートは教えて!系の質問掲示板ではありません。署名もせずに単発の質問をされるのはマナー違反で、私の回答ともども、削除されるべき書き込みです。
記事中の歴史の節の文章なども参考にしてください。ガウタマ・ブッダについては、ソクラテスや老子やイエスなどに比べれば伝記的な伝承が豊富ですが、それが史実なのか伝承・伝説なのか判別不可能です。
極めて厳密な証拠を求めようとすれば何も信じられるものはありません。名前についても、姓がガウタマであることの信用度と個人名がシッダールタであることの信用度は異なります。
釈迦涅槃時に生存していた有縁の人、となるとアーナンダの生存以外は全て伝承になります。そのアーナンダについてさえ、部派の師資伝承が全てアーナンダに結びつくこと、結集伝承、涅槃経など、アーナンダを信用しなければ全てが成り立たないからです。疑えばきりが無いのが仏伝です。疑わない伝承知識をお求めならば、国訳南伝大蔵経を図書館で読むなり、教えて!系なり2chなりで質問してください。読み終えて了解されましたら私の回答ともども削除してください。203.138.225.58 2014年2月2日 (日) 16:02 (UTC)[返信]

日付について[編集]

とりあえず、「生涯」の節から日付に関する記述は削っておきます。ちゃんと調べたわけではないですが、ウィキペディアでは日付にアンカーを貼った場合、グレゴリオ暦であることを暗黙の了解としているわけで、それより古いものはユリウス暦先発グレゴリオ暦が基準で、紀元前の話は先発グレゴリオ暦にすべきでしょう。漢訳の仏典にはちゃんと「4月8日」のような日付が書かれているのですが、おそらく、元となった記述は中国の太陰太陽暦の1つではなく、ある特定のインドの暦法(ヒンドゥー暦)に従って決められているはずで、まず、そこを説明しないで、いきなり日付を「釈迦」の記事内で使うのは乱暴すぎます。もし年代が確定しているなら、説明抜きで換算した日付を書くことに問題はないと思いますが、そうできない以上、(必要なら)日付に関する記述は別項を設けた上で詳述する方が良いと思います。--Askr会話2015年5月5日 (火) 03:08 (UTC)[返信]

北インドとネパール[編集]

北インド」は記事中に書かれているように、現在の国家であるインドとは関係なくて、地域としてはネパールを完全に含む概念なので、「北インド」と「ネパール」を併称するのは論理的に変なのです。釈迦はカピラヴァストゥだけでなく、マガダ国やコーサラ国などでも長期にわたって活躍しているので、釈迦の活動した地方をざっくり言うと「北インド」か「ヒンドゥスターン」ということになると思います。--Askr会話2016年5月14日 (土) 15:54 (UTC)[返信]

釈迦というのは、尊称の略で個人名ではないことについて[編集]

岩波仏教辞典の釈迦の項目を見ますと、1⃣として、種族の名、2⃣として、釈迦牟尼の略称となっています。釈迦牟尼は、釈迦族出身の聖者の意味だそうで、今はゴーダマブッダと呼ぶことが多いということが書いてありました。初期仏教の開祖を調べるときは、実在したと思われるゴーダマシッダールタのほうがいいような気がします。しかし、岩波仏教辞典にも、ゴーダマ・シッダールタの項目はないので、どちらとも言えない状況にあるようです。--Tokinokawa会話) 2020年12月7日 (月) 06:44 (UTC) 黄頭大士というのは、カピラ城出身の菩薩・大士という意味だそうで、釈迦と似たような尊称といえるようです。(おそらく大乗仏教関連の人には、釈迦という尊称は外せなかったのではないかと思われてきます。仏教の特色と関係があるのかもしれません。)父王であるシュッドーダナや弟のナンダも釈迦族という意味では釈迦といえるようですし、以前の書き込みにあります御釈迦という語も、類似した項目といえる状況にあるようです。ゴーダマ・シッダールタの項目はなかったのですが、シッダールタという項目はありました。余談となりますが、経典に言われているゴーダマ様というのは、いったい何なのかが疑問として残りました。--Tokinokawa会話) 2020年12月9日 (水) 03:04 (UTC) 『世界の名著2 大乗仏典』P10には、次のようにありました。 ・・・幼名はゴーダマ・シッダールタ。29歳のころに出家し、35歳のころに悟りをひらき、80歳で亡くなった。人々は彼をシャーキヤムニと、すなわち釈迦族の賢者と呼んだが、「釈尊」というのもさらに「世尊」と呼ぶのも同様な意味である。ブッダ(覚者)となることによって、自分でも「如来」と称し、「シャーキヤムニ・ブッダ」とか、「シャーキヤムニ・如来」などとも呼ばれる。大乗時代に出現したアミダブッダや大日如来と区別するために、学者はしばしばゴーダマ・ブッダと呼ぶ・・・。一般的に、該当する宗教の当事者は、そのページに書き込みをすべきではないとされていますが、そのうえ名称について投票をしたために、現在の状況に至ったものと思われます。--Tokinokawa会話2020年12月14日 (月) 06:00 (UTC)[返信]

「初期経典におけるゴータマ・ブッダの姓」の項目の作成について[編集]

本ページにおける「尊称・敬称・異名」の項目の下に、以下の文を作成したいと思います。

初期経典におけるゴータマ・ブッダの姓

初期仏教#「頼れる存在としてのダルマ」についてを参照。

初期の経典には、ゴータマが自己紹介をしている場面が記されている。そこでは、ゴータマは、自らを、「姓は太陽の末裔」であり、「種族は釈迦」であると、ある人に名乗っていた。ゴータマが、自己紹介をする場面で、自分の姓を、「太陽の末裔」名乗るということは、ゴータマが自らにつけていた姓がこれであった、ということができる。このことは、ゴータマ・ブッダは、公における自らの呼称を、「太陽の末裔」と改めていたと見ることができる[1]。--Tokinokawa会話2024年3月8日 (金) 03:03 (UTC)[返信]

WP:AWWという方針があり、「ということができる」「ことができる」を連発しているのが気になります。誰かの持論であれば主張者を上げ、特に他から反論のない部分であれば断言する形になりませんでしょうか。--Yuasan会話2024年3月15日 (金) 17:01 (UTC)[返信]

没年はいつ?[編集]

出家の年が没年になるのはおかしくないですか。--Yoroyoro2012会話2024年4月2日 (火) 04:23 (UTC)[返信]

  1. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P335 中村元