馬相伯

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馬相伯
プロフィール
出生: 1840年4月19日道光20年3月18日)
死去: 1939年民国28年)11月4日
フランス領インドシナ ランソン
出身地: 江蘇省鎮江府丹徒県
職業: 教育家
各種表記
繁体字 馬相伯
簡体字 马相伯
拼音 Mǎ Xiàngbó
ラテン字 Ma Hsiang-pai
和名表記: ば しょうはく
発音転記: マー シアンバイ
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馬 相伯(ば しょうはく)は清末民初の教育家。清朝の洋務派官僚として知られる馬建忠は弟である。名は建常、のちにと改めた。相伯湘伯薌伯など。晩号は華封老人。クリスチャンネームはヨセフ

事跡[編集]

カトリック教徒の家庭に生まれた。11歳でイエズス会が運営する上海のイグナチオ公学(徐匯公学)に入学した。1862年にイエズス会に入会し、哲学・文学・天文学を学んだ。1869年、神父となり、安徽省宣城や江蘇省南京徐州一帯で布教を行った。1872年、イグナチオ公学の校長となるが、外国人宣教師のやっかみに遭って、1876年にイエズス会を脱会した。

その後、兄の馬建勛の勧めで李鴻章の幕僚となり、山東省の鉱業の調査を行った。1881年より駐日公使館の参賛となり、翌年からは朝鮮に赴いた。1885年から台湾巡撫劉銘伝の幕僚となった。1892年から再び日本に赴任し、長崎横浜の領事館・公使館の参賛となった。

1903年には震旦学院(後の震旦大学)を創設した。1905年には厳復とともに復旦公学(現在の復旦大学)を創設し、自ら校長となって于右任邵力子らを教授に招いた。また英斂之とともに北京公教大学を設立し、これは後に輔仁大学と改名された。他に北京培根女校も創立している。

1912年中華民国が成立すると江蘇都督府外務司長・北京大学校長代理などを歴任した。1920年に引退し、キリスト教の書籍の翻訳に没頭した。さらに最高学術機関の創設も構想したが、これは友人の教育者蔡元培により、1928年中央研究院として実現した。

1931年満州事変が勃発すると内戦の停止を呼びかけ、1935年中国共産党八・一宣言を発表すると沈鈞儒鄒韜奮らと上海文化界救国運動宣言を発表した。翌年、宋慶齢何香凝らと全国各界救国連合会執行委員に選ばれた。1937年南京国民政府委員となった。1938年昆明に避難する途中にベトナムで病にかかり、翌年に死去した。

著書[編集]

  • 馬相伯先生文集
  • 馬相伯国難言論集