韋瓘 (唐)

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韋 瓘(い かん)は、中期の進士は茂弘(もこう)。京兆府杜陵県(現在の陝西省西安市雁塔区)の出身。韋正卿(い せいきょう)の子で韋珩(い こう)の弟、韋夏卿(い かきょう)の侄に当たる[1]

生年は徳宗貞元4年(788年)と記録される[2]が実はその翌貞元5年の生まれと推定され[3]憲宗元和4年(809年)、21歳の時に状頭で進士に及第し[4]、元和8年以前に宣歙観察使中国語版盧坦中国語版(ろ たん)の幕職に[5]、次いで元和10年以前に浙東観察使中国語版孟簡中国語版(もう かん)の幕職になり[6]、元和15年以前に入朝して左拾遺中国語版従八品上)を授けられたらしく、元和15年10月に右拾遺李玨中国語版(り かく)等と即位後の穆宗に対して酒色に溺れすぎていると諫奏している[7]。そして恐らくは同年中に右補闕中国語版(秩従七品上)に改替されて史館修撰に充てられ[8]、その後、倉部員外郎戸部判官、秩従六品上)、司勲郎中吏部の判官、秩従五品上)を経て[9]中書舎人中国語版(秩正五品上)に昇る[10]が、文宗大和7年(833年)に康州中国語版(現在の広東省中西部)の長史(秩正六品下)に貶官された[11]

莫休符(ばくきゅうふ)『桂林風土記中国語版(けいりんふうどき)』に拠れば、韋瓘は門閥貴族の出自を恃んで顕臣の座を志向していたというので[12]、恐らくはそうした性行から李徳裕と近しくなったようで[13]、所謂牛李の党争では李徳裕を領袖とする李党の一員に数えられ、『新唐書』に載せる伝に拠ると李徳裕が宰相の座に就いて滅多に人と会わなくなってからも韋瓘の訪問はこれを迎えその頼み事を聞く程であったという[14]。なお、『新唐書』はその為に牛党(反李徳裕派)の領袖李宗閔中国語版(り そうびん)に悪(にく)まれ、李徳裕が宰相を罷免されると同時に貶官されたと記録するが、李徳裕の拝相は大和7年2月、罷免されて興元節度使中国語版に転出するのが翌大和8年10月なので、韋瓘の謫官はその年紀に錯乱が無ければ李徳裕の在任中であってその失脚とは別の理由にあった事になる[15]。そこから韋の李党説を疑う説も出されるが、いずれにせよ李党の一員であった事は確かなようで、この当時に世に出たと考えられる後述『周秦行紀(しゅうしんこうき)』の真の撰者と考えられている[16]。また、同書が謫官先を明州(現在の浙江省寧波市)とするのは同書の誤伝と考えられる[16]一方で、或いは康州への謫官後に科が軽減されてより都に近い明州に除替された可能性もある[17]

その後、武宗の即位によって開成5年(840年)に李徳裕が再度入相すると韋瓘も復朝されたらしく、会昌6年(846年)には楚州刺史(秩正四品上)を拝命して御史中丞を兼帯し[18]宣宗大中2年(848年)2月に桂管経略使中国語版(治所は現在の広西チワン族自治区桂林市)に栄転するが、その間、長安では大中元年に李徳裕が失脚しており、大中2年5月に牛党の馬植中国語版(ば しょく)が宰相となるに及ぶと、馬植によって僅か半年前後で太僕卿分司東都(太僕寺洛陽分局長官、秩従三品?[要検証])という名のみの閑職へと除替された[19]。馬植は李徳裕から疎まれて入朝後の要官就任を阻まれていたと伝えられ[20]、『桂林風土記』に拠ると長安在官時の会昌年間に李徳裕と親しい韋瓘に執り成しでも求めたものか28度も面会を申し込むが全て無視され、これを恨んで宰相の座に就くや即座に韋瓘を除替したという[21]。なお、洛陽では崇譲里に邸を構えていた[22]

分司就官後の経歴は伝わらず卒年も不明であるが、懿宗咸通2年(861年)至3年(862年)に康志睦(こう しぼく)の碑文を撰しているので[23]当時の生存は確認できる(時に73至74歳)[16]

韋瓘の著作は僅かに『全唐文』の3篇[24]と『全唐詩』に収める1首[25]しか現伝しておらず、文集等の存在は確認できないが[26]、一に牛僧孺の名を騙って『周秦行紀』を偽撰したと目されている。唐室に対する不敬な表現が見える同書は宋の賈黄中中国語版(か こうちゅう)が李宗閔と並んで李徳裕の政敵であった牛僧孺の排斥を狙った韋瓘が著したものと説いて以降[27]、その明証が示されていないので異説もあるものの、何らかの根拠に基づくであろうと是認され通説となっている[16]

脚注[編集]

  1. ^ 林宝『元和姓纂』巻2京兆諸房韋氏条、『新唐書』宰相世系表4上(巻74上表第14上)、龍門公房韋氏。因みに夏卿の女で従姉妹の韋叢(い そう)が後掲元稹に嫁している。
  2. ^ 宋『錦繍萬花谷』後集巻34所引『続定命録』(垣下生善筮条)。なお次注参照。
  3. ^ 李劍國「周秦行紀」『唐五代志怪傳奇叙録』(第2刷版)第3巻所収、南開大學出版社、1998年。前掲『続定命録』は貞元4年(788年)生まれ、元和4年(809年)に21歳で登第とするが、逆算すると生年は貞元5年となる。恐らくは貞元5年の誤り。
  4. ^ 莫休符『桂林風土記』碧潯亭条、前掲『続定命録』、元辛文房『唐才子伝』巻6鮑溶伝。
  5. ^ 清董誥『全唐文』巻695所収韋瓘「宣州南陵県大農陂記」。
  6. ^ 同上韋瓘「修漢太守馬君廟記」。
  7. ^ 『新唐書』李玨伝(巻182列伝第107)、宋王溥『唐会要』巻55諫議大夫元和15年10月条。
  8. ^ 元稹『元氏長慶集』巻47「独孤朗可尚書都官員外郎韋瓘可守右補闕同充史館修撰制」。「守」とあるので散官はそのままであったらしい。
  9. ^ 『郎官石柱題名』「倉部員外郎」及び「司勲郎中」。
  10. ^ 『新唐書』韋夏卿伝(巻162列伝第87)附載瓘伝。
  11. ^ 清曽国荃等撰『湖南通史』巻265所載韋瓘「浯渓題名」(以下「題名」)。この「題名」前半部は宋洪邁『容斎隨筆』巻第8「浯渓留題」に判別不能箇所を削って引かれ、後半部は『全唐文』前掲巻に「浯渓題壁記」として引かれている。なお、下注参照。また、以上の韋の経歴は李前掲書に拠った。
  12. ^ 前掲碧潯亭条。
  13. ^ 王夢鷗『唐人小説研究四集』上編4「牛羊日暦及其相關的作品與作家辨」、藝文印書舘、中華民國67年。
  14. ^ 前掲瓘伝。
  15. ^ 前掲「題名」に大中2年(849年)12月の16年前に謫官されたと自叙しており、逆算すると大和7年(833年)になる。この場合、現伝「題名」が「十五年」を「十六年」と写し誤った事も一応は考えられ、また韋自身が勘違いをしていた可能性もある。
  16. ^ a b c d 李前掲書。
  17. ^ 王前掲書。
  18. ^ 李前掲書。前掲瓘伝と「題名」、及び『全唐詩』所収趙嘏「山陽韋中丞罷郡因献」詩(巻549)、同「送韋中丞」詩(巻550)の記述に因る。
  19. ^ 前掲「題名」、莫書。
  20. ^ 新旧両『唐書』馬植伝(旧巻176列伝第126、新巻184列伝第109)。
  21. ^ 莫前掲書。
  22. ^ 前掲「題名」。崇譲里は洛陽城の南東部、最南の東から2箇目の坊。「洛陽城図」参照(図に「崇譲」とある坊)。
  23. ^ 宋陳思『宝刻叢編』卷7「唐贈太尉会稽郡公康志睦碑」所引『京兆金石録』。『宝刻叢編』巻5帰融条、巻6楊述条。前2者に2年、最後者に3年とある。
  24. ^ 巻695所収。前掲「宣州南陵県大農陂記」「修漢太守馬君廟記」「浯渓題壁記」の3篇。
  25. ^ 巻507所収「留題桂州碧潯亭」。但し、実は前掲莫書からの抜粋。
  26. ^ 李前掲書。他に前掲「唐贈太尉会稽郡公康志睦碑」の撰文があったが伝わらない。
  27. ^ 張洎『賈氏譚録』。晁公武『郡斎読書志』巻13。

参考文献[編集]

  • 蘇華「韋瓘」(馬良春、李福田編『中国文学大辞典』第2巻)、天津人民出版社、1991年