憲宗 (唐)
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| 憲宗 李純 | |
|---|---|
| 唐 | |
| 14代皇帝 | |
| 王朝 | 唐 |
| 在位期間 | 805年 - 820年 |
| 姓・諱 | 李純 |
| 諡号 | 昭文章武大聖至神孝皇帝 |
| 廟号 | 憲宗 |
| 生年 | 778年(大暦13年) |
| 没年 | 820年(元和15年) |
| 父 | 順宗(長子) |
| 陵墓 | 景陵 |
| 年号 | 元和 : 806年 - 820年 |
805年4月に立太子され、同年8月には順宗が病を理由にした譲位にともない即位した。即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。さらに地方の節度使勢力を抑制するため、817年(元和12年)には淮西節度使を討って地方の統制強化も実施している。対藩鎮勢力の施策としては、儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。さらに名臣と謳われた武元衛や李吉甫らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
だが、長男で太子に立てられた鄧王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に依拠するようになった。法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため憲宗は820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺されてしまった。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 懿安皇后
- 孝明皇后
[編集] 子
- 恵昭太子(鄧王)李寧
- 澧王李惲
- 遂王李恆
- 深王李悰
- 洋王李忻
- 絳王李悟
- 建王李恪
- 鄜王李憬
- 瓊王李悅
- 沔王李恂
- 婺王李懌
- 茂王李愔
- 光王李怡
- 淄王李恊
- 衡王李憺
- 澶王李怀
- 棣王李惴
- 彭王李惕
- 信王李憻
- 栄王李愠
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