神長氏

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神長氏(かみながし)は日本氏族神永氏とも。

佐竹家臣 神長氏[編集]

『藤原氏神長系図伝書』によれば神長氏の本姓藤原氏であるといい、常陸国佐竹氏に仕えたとされる[1]家紋丸に下がり藤[2]永禄5年(1562年8月15日、松岡領坂ノ上孫沢原にて行われた相馬氏との合戦では佐竹軍二番組衆に神長佐多衛門が名を連ねている[3]。また、佐竹家臣団の記録では、岩城衆・菊田郡衆に神長将監の名がある[4]

秋田藩士 神長氏[編集]

佐竹家臣として同氏の出羽国秋田転封に随行する者として神長光勝の名が見える。光勝は初め弥右衛門、後に対馬と名乗り、慶長7年(1602年)、佐竹義宣が秋田に転封されるとこれに随行し、平鹿郡横手に住まうという。元和元年(1615年)、大坂夏の陣にも出陣する。元和9年(1624年)上洛に随行するという。万治2年(1659年)没するという。また、光勝の子を弥右衛門光元といい、元禄3年(1690年)没した。光元の後は光直久右衛門光近と続いた。この他、神長出雲、神長與右衛門光里の名も見える[5]

秋田藩士 神長氏系譜[編集]

『藤原氏神長系図家伝書』による[1]

神長光勝―光元―光直―光近

水戸藩領内の神長氏[編集]

神長氏には佐竹移封後も常陸国に在国した家系があり、正徳3年(1713年)、久慈郡頃藤東勝山長福寺の境内に、神長惣兵衛兵衛の名が刻まれている[6]

神永氏[編集]

同じく藤原氏族である。家紋は丸に五三の桐、丸に抱き茗荷、右三つ巴[2]

幕末維新期に活躍した神長・神永姓の人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 秋田県公文書館編『系図目録Ⅰ』(秋田県、2001年)71頁及び秋田県立公文書館所蔵、神長久右衛門光近所有『藤原氏神長系図家伝書』参照。
  2. ^ a b 日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県北部地方』(日本家紋研究会、2001年)15頁参照。
  3. ^ 大内政之介『山入一揆と佐竹氏』(筑波書林1991年)104頁参照。
  4. ^ 大内政之介前掲『山入一揆と佐竹氏』(筑波書林1991年)107頁参照。
  5. ^ 常陸太田市編さん委員会『佐竹家臣系譜』(常陸太田市1982年)176頁参照。秋田県公文書館前掲書(秋田県、2001年)71頁参照。なお、同氏については平氏落人としての伝承もある。平家の落人の項参照のこと。
  6. ^ 大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林、1993年)43頁参照。
  7. ^ 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社1986年)233頁参照。
  8. ^ 明田鉄男前掲書(新人物往来社、1986年)426頁参照。

参考文献[編集]

書籍

  • 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)ISBN 4404013353
  • 大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林、1993年)
  • 大内政之介著『山入一揆と佐竹氏』(筑波書林、1991年)
  • 日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県北部地方』(日本家紋研究会、2001年)
  • 常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸太田市、1982年)

史料

  • 秋田県立公文書館所蔵、神長久右衛門光近所有『藤原氏神長系図家伝書』

外部リンク[編集]

関連項目[編集]