畠山義忠

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畠山義忠
時代 室町時代中期
生誕 明徳元年(1390年)
死没 寛正4年8月21日1463年10月12日
改名 義忠→賢良(法名)
戒名 竜興寺芳彦賢良大居士
官位 左馬助阿波守修理大夫
幕府 室町幕府相伴衆能登守護
主君 足利義教義勝義政
氏族 畠山氏(能登系)
父母 父:畠山満慶
兄弟 義忠教国御供衆
義有、※嗣子:義統 (義有の子)
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畠山 義忠(はたけやま よしだた)は、室町時代守護大名室町幕府相伴衆能登守護。能登畠山氏2代当主。能登七尾城主。畠山満慶の子。子に義有。官位は左馬助、阿波守、修理大夫。法名は賢良。

永享元年(1429年)に6代将軍足利義教元服で理髪役を務める。(ちなみに、義忠の弟はのちに義教の1字を受けて畠山教国(のりくに)と名乗り、御供衆の一人に名を連ねている(『長禄二年以来申次記』より)。)

翌2年(1430年)から父に代わって守護の役割を代行、永享4年(1432年)に父が亡くなり家督を継いだ。永享6年(1434年)に相伴衆に任じられ幕閣に参加、翌7年(1435年)に修理大夫に任じられた。しかし、永享12年(1440年)頃に子の義有が義忠に先立ち戦没したため、嫡孫義統を後継者と定めた。嘉吉年間に出家し、賢良と号した。

享徳3年(1454年)、本家である従兄の畠山持国の後継を巡り甥の弥三郎政長兄弟と子の義就が対立した時、義忠は義就に味方して弥三郎の追討に参戦している。翌4年(1455年)に義統に家督を譲って隠居、寛正4年(1463年)に京都の屋敷で亡くなった。

文化に関心が深く、幕府の和歌会に列席、尭孝冷泉為之正徹らと交わった。蹴鞠、松噺子にも関心があり、当時の大名の中でも文化人として知られていた。

義忠の孫には義統の他に政国がおり、政国は義就の猶子となっている。

偏諱を与えた家臣[編集]

参考文献[編集]